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カーディガン伯爵()は、イギリスの伯爵位。イングランド・スコットランド合同前に創設されたイングランド貴族である。1661年4月20日に初代スタントン・ワイヴィルのブルデネル男爵トマス・ブルデネル(ブラドネル)が叙位されたことに始まる。現在はアイレスバリー侯爵が保持している。 == 歴史 == 1611年6月29日にサー・トマス・ブルデネルは準男爵(カウンティ・オブ・ノーサンプトンにあるディーンの; 。イングランド準男爵)の称号を与えられ、次いで1628年2月26日にカウンティ・オブ・レスターにあるスタントン・ワイヴィルのブルデネル男爵(。イングランド貴族)に叙され、さらに1661年4月20日にカーディガン伯爵へ叙された。 初代伯が死去すると息子のロバートが2代伯となった。2代伯の一人息子であるフランシスは父より先に没したため、伯位はその息子で2代伯の孫にあたるジョージが相続した。 4代伯となったのは3代伯の息子のジョージである。彼は第2代モンタギュー公爵ジョン・モンタギューの娘であるメアリ・モンタギューと結婚し、第2代モンタギュー公爵の男子が全て夭逝したためモンタギューへ改姓して義父の遺産を相続した(モンタギュー公爵そのものはここで一度断絶した)。そして彼は1766年にモンタギュー公爵およびMonthermer侯爵に、1786年にカウンティ・オブ・ノーサンプトンにあるバウトンのモンタギュー男爵(。いずれもグレートブリテン貴族)に叙された。 1790年に4代カーディガン伯すなわち初代モンタギュー公爵は死去したが、彼には女子しかいなかった。カーディガン伯爵とその従属称号は弟で1780年10月17日にカウンティ・オブ・ノーサンプトンにあるディーンのブルデネル男爵(。グレートブリテン貴族)に叙されていたジェイムズが相続、モンタギュー公爵とその従属称号は断絶、バウトンのモンタギュー男爵は女系の孫に継承させるというが付されていたため孫のヘンリー・モンタギュー=スコットが相続した。 5代伯は襲爵前に庶民院議員(はじめシャフツベリ選出、次いでヘイスティングス選出、その次にグレート・ベドウィン選出、最後にマールバラ選出)となっていたほか、ジョージ3世の下で王室出納長官()を務めるなどとして公職にあった。彼には男子がないまま死去したため、カーディガン伯爵は弟ロバートの同名の息子が相続した。一方ディーンのブルデネル男爵は断絶した。 6代伯はクリケット選手であり、1790年から1793年にかけてに知られているだけで8度出場したほか、世界最古のクリケットチームであるマリルボーン・クリケット・クラブ(; MCC)の初期の選手の一人でもあった。また1797年から1802年までマールバラ選出庶民院議員を務めた。 6代伯が死去すると、その息子であるジェイムズが7代伯となった。彼は軍人で、クリミア戦争のバラクラヴァの戦いにおいて軽騎兵旅団の突撃()と呼ばれる突撃を指揮したことで知られる。また衣服のカーディガンの名称は彼が考案したことに由来する。 7代伯は1868年に子のないまま死去し、伯位ははとこのジョージによって相続された。彼は3代伯の末子であるトマスの孫である。 トマスは1747年に母方の伯父である第4代エルギン伯爵チャールズ・ブルースから、カウンティ・オブ・ウィルトにあるトッテナムのブルース男爵(; グレートブリテン貴族)を相続し、1776年にアイレスバリー伯爵(グレートブリテン貴族)に叙され、また1766年には姓を母のものと組み合わせて「ブルデネル=ブルース」へ改めていた。さらにトマスの子でジョージの父であるチャールズは1821年にアイレスバリー侯爵(連合王国貴族)にも叙されており、ジョージは1856年に父からこれらの爵位を相続していた。 侯爵は伯爵よりも上位の称号であるため、以後カーディガン伯爵の称号は当主が称することはなくなった。また初代アイレスバリー侯爵は初代カーディガン伯爵の唯一残る子孫であったため、この二つの爵位は別人に相続されることはない。しかしながら、アイレスバリー侯爵位の法定推定相続人の儀礼称号としてカーディガン伯爵は現在でも用いられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カーディガン伯爵」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Earl of Cardigan 」があります。 スポンサード リンク
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