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カーディフの巨人(カーディフのきょじん、The Cardiff Giant)は、アメリカ合衆国の有名な悪戯の一つ〔桐生(1998, 9)〕。1869年10月16日、首謀者ジョージ・ハルは一年前にニューヨーク州カーディフ(英語版)近郊に埋めた全長3メートルの石膏像を掘り出し、巨人の化石が発見されたと全米に発表した〔桐生(1998, 10)〕。実際には偽造は「ずさん」であり、専門家は化石ではないと発見時点で否定していたが、それにも関わらず「巨人発見」という話題がひとり歩きしてアメリカ中から見物人が殺到した〔桐生(1998, 10)〕。 ==作製から「発見」まで== ニューヨーク州ビンガムトン生まれの葉巻製造業者ジョージ・ハルは、ダーウィンの進化論を支持し、創世記に懐疑的な視線を向ける無神論者だった〔桐生(1998, 9)〕。1866年、アイオワ州の親族に会いにいったハルは、そこでメソジスト派の牧師との間で創世記では人類以前に生きていたとされる巨人(ネフィリム)について議論となり、互いに譲らずやがては口論に発展した。この時、ハルは巨人の化石を捏造することを思いつく〔桐生(1998, 9)〕〔Magnusson(2006, 188)〕。当時、ハルは石油や岩石から貴金属を生み出そうとする錬金術に傾倒しており、専門的な科学知識はほとんどなかったものの、それらの性質による物質の変化には熟知していた〔桐生(1998, 9)〕。 2年後の1868年、ハルは友人と7トンもの石膏(高さ3.2メートルの長方形)を購入する〔桐生(1998, 9)〕。名目は「エイブラハム・リンカーンの記念碑」のためとされたが、石膏はシカゴ在住のドイツ人の石工エドワード・バンガードの元に運びこまれ、ハル自身をモデルにした巨人像の作製が開始された。ハルはさらにもう一人の石工サールを雇い入れ、食事とアルコールを十分に提供することを引き換えに缶詰状態にして、石膏像を三ヶ月後に完成させた〔桐生(1998, 10)〕。ハルはその石膏像の表面を毛穴に見えるよう鋼編み針で加工し、硫酸で風化の処置を施した後にニューヨーク州カーディフ(英語版)に移動した〔桐生(1998, 10)〕。そこには従兄弟ウィリアム・ニューウェルの経営する農場があり、小屋の裏手に埋められた。ここまでの費用は当時のUSドルで2,600ドルを要したが、ハルにはこの巨人が話題になれば回収できる腹づもりがあった〔桐生(1998, 10)〕。 農場に埋められてから一年後の1869年10月16日、ニューウェルの依頼により小屋の裏手で井戸を掘ろうとした作業員たちにより、カーディフの巨人は「発見」された。直ちに発掘された巨人を覆う巨大なテントが設営され、同時に巨人発見のニュースは生物学上、または神学上の大発見だとして全米に報道された。すぐに大勢の人々がカーディフに押し寄せた。彼らはハルに見物料として50セント〔Rose, Mark (November--December 2005), "When Giants Roamed the Earth" , Archaeology (Archaeological Institute of America) 58 (6), retrieved April 26, 2005〕 (後に1ドル〔桐生(1998, 10)〕)を要求されたが、それでも全米から訪れる人々は一日あたり数百人に及んだ。 しかし考古学者たちは一瞥しただけで、カーディフの巨人を「石膏の彫像」と見破っていた。著名な学者ではイェール大学のオスニエル・チャールズ・マーシュ教授が正式に真っ赤な偽物と鑑定結果を出し、「最も明確なペテン」と切り捨てている。発見のきっかけとなった井戸掘りについても、地質学者は位置が不自然であることを突き止めていた。このようにハルの造り出した化石は、彼らにとって「科学的でっちあげを名乗るには、あまりに図々しい〔桐生(1998, 9)〕」出来であったが、一方では「化石ではないが、北アメリカで最古の彫像である」と一部偽造に騙されたニューヨーク州立博物館の職員の例もあった〔桐生(1998, 11)〕。さらにキリスト教の原理主義者たちの幾人かは創世記の巨人が実際にいた証拠であり、進化論を否定するものとしてこれを強く擁護した〔 Cardiff Giant, Geological Hall, Albany 〕。また、これら科学者の指摘にも拘らず、「巨人発見」の噂だけがひとり歩きして話題を呼び、見物人はなおも増え続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カーディフの巨人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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