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カーメル・マイヤーズ(, 1899年4月4日 - 1980年11月9日)は、アメリカ合衆国の女優である〔Carmel Myers, Internet Movie Database , 2010年6月18日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 1899年(明治32年)4月4日、カリフォルニア州サンフランシスコに生まれる〔。ラビである父はオーストラリアからの、母はオーストリアからの移民で、1歳年長の兄にのちの映画監督ザイオン・マイヤーズがおり、2歳年少の従弟にのちの映画監督のマーク・サンドリッチがいる〔。 満16歳になる1915年(大正4年)、ベッシー・ラヴ、コンスタンス・タルマッジとともに ''Georgia Pearce'' に出演したのが、もっとも古い映画出演の記録である〔。1916年(大正5年)、L-KO・カンパニーが量産する短編映画に数本出演した後、D・W・グリフィスのファイン・アーツ・フィルムに入社、大作の『イントレランス』や、ポール・パウエル、チェスター・ワージーらが監督する短篇映画に出演する〔。 1917年(大正6年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、前年に同社傘下に設立されたブルーバード映画で、同年、ハリー・ソルター監督、ケネス・ハーラン主演の『力』に出演、その後、ジョージ・シーグマン監督の『知らぬ妻』、ソルター監督の『磯打つ波』、スチュアート・ペイトン監督の ''The Girl in the Dark'', 『紫の園』、『偽の結婚』、ジョセフ・ド・グラス監督の『情の国歌』、エルシー・ジェーン・ウィルソン監督の『涙の街』や『夢の女』、ポール・パウエル監督の『社交界の花形』、『終夜』、『夫は誰?』、『孤島の娘』と、1919年(大正8年)春のブルーバード映画最末期まで、立て続けに主演作を連打〔、そのほとんどすべてが日本でも公開された〔『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.〕。同年7月16日、イジドア・コーンブラムと結婚する〔。 1921年(大正10年)、ユニヴァーサルを退社、小プロダクション作品に引き続き主演し、1923年(大正12年)には夫コーンブラムと離婚する〔。翌1924年(大正13年)、3社が合併して設立されたメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに入社する〔。 1928年(昭和3年)から始まる初期のトーキーにも積極的に出演し、1929年(昭和4年)6月9日、ラルフ・H・ブラムと再婚する〔。1934年(昭和9年)の ''The Countess of Monte Cristo'' に出演した以降は、しばらく家庭に入る〔。 1942年(昭和17年)、リパブリック・ピクチャーズ製作、リー・ジェイソン監督の『或る夜の貴婦人』の脇に出演して、映画界に復帰する〔。 夫ブラムとはのちの脚本家のラルフ・ブラムほか3児をもうけたが、1950年(昭和25年)に離婚する〔。翌1951年(昭和26年)6月26日に放映を開始したテレビ映画シリーズ ''The Carmel Myers Show'' のホスト役を務める〔。同年10月、アルフレッド・シュワルバーグと再々婚する〔。1952年(昭和27年)の ''The Carmel Myers Show'' が放映を終了、1953年(昭和28年)にテレビ映画 ''Studio One in Hollywood'' の1挿話に出演した以降は、映画界・テレビ界を退く〔。 1974年(昭和49年)、夫シュワルバーグと死別、翌1975年(昭和50年)からふたたびテレビ映画に出演し、映画『名犬ウォン・トン・トン』にも出演している〔。同作が最後の出演作となった〔。 1980年(昭和55年)11月9日、カリフォルニア州ロスアンゼルス市で心臓発作により死去した〔。満81歳没。同州イースト・ロサンゼルスにあるホーム・オヴ・ピース墓地に眠る〔Carmel Myers, Find A Grave , 2010年6月18日閲覧。〕。ハリウッドのヴァイン街1751番地にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を刻む〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カーメル・マイヤーズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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