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カール4世(Karl IV.,1316年5月14日 - 1378年11月29日)は、ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1355年 - 1378年)。ボヘミア(ベーメン)王カレル1世(Karel I., 在位:1346年 - 1378年)としても著名である。フランス語名ではシャルル(Charles)。 文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される〔坂井(2003)pp.63-66〕。金印勅書の発布やプラハ大学の創設、教皇のローマ帰還への尽力などで知られる。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の孫で、父はボヘミア王ヨハン(ヤン)、母はボヘミア及びポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカ。 モラヴィア辺境伯(在位:1334年 - 1349年)、ルクセンブルク伯でもあった(在位:1346年 - 1353年)。 チェコで流通している100コルナ紙幣に肖像が使用されている。 == 生涯と治世 == === 出生とパリでの生活 === カール4世は1316年5月14日、ボヘミア王国の都プラハで生まれた。母はプシェミスル家最後のボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカである。 1306年、ヴァーツラフ3世が暗殺されるとプシュミスル家の男系男子は絶え、その後様々な経緯があったものの〔1306年以降、ハプスブルク家出身のルドルフ(1306年 - 1307年)とケルンテンのインジフ(ハインリヒ、1306年、1307年 - 1310年)とが争い、ルドルフの死後にインジフを廃してルクセンブルク家のヨハンが即位した。〕、国内で王位継承に同意権を有していたボヘミアの有力貴族たちは、最終的にボヘミア王として、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子であるルクセンブルク家のヨハンを選んだ。1310年、ヨハンはエリシュカと結婚してボヘミア王となったが〔坂井(2003)pp.55-57〕、この2人の間に生まれた長男がカールである。カールは最初、伯父や外祖父と同じくヴァーツラフ(''Václav'':チェコ語 - ドイツ語ではヴェンツェル:Wenzel)と名付けられた。 ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引くチェコ人として生まれたカールであったが、政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離され〔、ロケト城に幽閉され、その後7歳から14歳までの間はパリの宮廷に送られてそこで養育された。これは、カペー朝最後の王となるフランス王シャルル4世の王妃マリー・ド・リュクサンブールが父ヨハンの妹だった縁による。 シャルル4世について、カールは後に「王自身はラテン語の知識がなかったが、ラテン語の基礎を学ばせるため、宮廷司祭を家庭教師としてわたしにつけて下さった」と自伝に記している〔トレモリエール&リシ(2004)pp.404-406〕。 この時の教師はフランス貴族出身のピエール・ロジェ、後の教皇クレメンス6世であり、カールにラテン語や神学を講じ、また帝王学を授けたといわれる〔魚住(1995)pp.110-113〕〔ピーターズ(1980)pp.184-185〕。ゆきとどいた教育によって、カールは繊細で教養の高い若者に育った〔。また、このことは後年、カールが神聖ローマ皇帝に選出されるに際して決定的な影響をあたえる機縁となった〔。 パリ滞在期間、彼は代父であるシャルル4世の名をとってヴァーツラフからシャルル(ドイツ語でカール、チェコ語でカレル)と改名し、1329年にはフランス王族のヴァロワ伯シャルルの娘でシャルル4世の従妹であるブランシュを最初の妻に迎えた。なお、ブランシュはヴァロワ朝初代のフィリップ6世の異母妹にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール4世 (神聖ローマ皇帝)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Charles IV, Holy Roman Emperor 」があります。 スポンサード リンク
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