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カールハインツ・シュトックハウゼン : ウィキペディア日本語版
カールハインツ・シュトックハウゼン

カールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen、1928年8月22日 - 2007年12月5日)は、ドイツ現代音楽作曲家
== 略歴 ==
ケルン郊外の村で生まれる。父親は大学の講師でピアノを弾き、母親は裕福な農家の出身であった。母親は、カールハインツが4歳のときに精神を病んで入院したが、後にナチス政権優生学に基づき安楽死させられ、父親は第二次世界大戦末期の1945年東部戦線に出征し、行方不明のまま戻ることはなかった〔「カールハインツ・シュトックハウゼン略歴」(『シュトックハウゼン音楽論集』清水穣・訳、現代思潮新社、1999年所収)より。〕。
6歳時よりピアノを習っていたカールハインツは、1947年、ケルン音楽大学のピアノ科に入学、スイスの作曲家フランク・マルタンに理論を師事する。在学前と在学中はジャズ等のピアニストとして生計を立てていたが、同時にケルン大学にも籍を置き哲学などの思索にふけった。この大学の音楽学学科には晩年になっても定期的に訪れ、特別講義を担当していた。音楽大学音楽教育科を卒業した1952年頃ころから作曲家になる決心をしたと本人はSWRのインタビューで語っている。
1952年にはフランスに移り、パリ国立高等音楽院に入学、オリヴィエ・メシアンの分析クラス、ダリウス・ミヨーの作曲クラスにて学んだ(卒業はしていない)。「群の音楽」や「モメント形式」などの新しい概念を次々と考案し、また、世界で初めての電子音楽を作曲。「少年の歌」や「グルッペン」、「コンタクテ」、「モメンテ」などの代表作を作曲して、第二次世界大戦後の前衛音楽の時代において、フランスのピエール・ブーレーズ、イタリアのルイジ・ノーノらと共にミュージック・セリエルの主導的な役割を担った。
60年代後半以降は確定的な記譜法を離れ、自身の過去作品を出発点としてそれを次々と変容してゆく「プロツェッシオーン」や短波ラジオが受信した音形を変容してゆく「クルツヴェレン」などを作曲。更には、演奏の方向性がテキストの形で提示された「直観音楽」を提唱する。アロイス・コンタルスキーヨハネス・フリッチェらの演奏家とアンサンブルを結成し、これらの音楽を演奏した。
70年代には「フォルメル技法」を掲げて再び確定的な記譜法に回帰。1977年から2003年まで、7つのオペラから構成される長大な連作「(LICHT)」の創作に携わり、最終作である「日曜日」の第3場面「光‐絵」が、2005年の自身の28年ぶりの来日の際に東京の夏音楽祭にて演奏された。2004年以降は、一日の24時間を音楽で表現する24の連作「クラング」を作曲していたが、あと一歩で全曲の完成は叶わなかった。
1961年にケルン郊外の村、に土地を購入し、自身の要望どおりの家を4年ほどかけて建て、以後はその家で過ごした。また、「シュトックハウゼン出版社」を設立し、自作のCDや楽譜などを体系的に出版する。1998年からは毎年キュルテンで「シュトックハウゼン講習会」を開催、後進の指導に熱心に取り組んだ。2007年にキュルテンの自宅にて、12月5日に亡くなった〔公式サイトのプレスリリース (英文) 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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