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カール・フリードリヒ・アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート(Karl Friedrich Albrecht Prinz von Preußen, Markgraf zu Brandenburg-Schwedt, 1705年6月10日 ベルリン - 1762年6月22日 ブレスラウ)は、ドイツ・ブランデンブルク=プロイセンの王族(王子)、軍人。ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯。フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の孫で、聖ヨハネ騎士団ブランデンブルク大管区長(在任1731年 - 1762年)を務めた。 ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯家のアルブレヒト・フリードリヒと、その妻でクールラント公フリードリヒ・カジミールの娘マリー・ドロテア(1684年 - 1743年)の間の第2子、次男として生まれた。プロイセン軍に入隊し、第1次シュレージエンではグローガウ公爵領の占領、モルヴィッツの戦い、コトゥジッツの戦いなどで戦功を立てた。1745年初頭に上シレジア侵攻を指揮した際は、プロイセン王フリードリヒ2世から感状を与えられた。 7年戦争ではフリードリヒ2世王の絶対的な信頼をかさに自分勝手な指揮を繰り返したが、ホッホキルヒの戦いやトルガウの戦いでは負傷したもの、目立った働きを見せた。高潔で博愛主義の人物で、文芸や学識を好んだ人物とされている。1744年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム8世の娘マリー・アマーリエ(1721年 - 1744年)と婚約したが、その直後に婚約者と死別し、生涯独身を通した。 カール・アルブレヒトにはドロテア・レギーナ・ヴター(''Dorothea Regina Wuther'')という長年連れ添った愛人との間に一人娘のカロリーネ(''Karoline Regina von Carlowitz'', 1731年 - 1755年)がおり、母娘は1744年に貴族に列せられてフォン・カルロヴィッツ(''von Carlowitz'')姓を名乗った。カールは娘を自分の副官アルブレヒト・フォン・シェーンブルク=ヒンターグラウハウ伯爵(''Albrecht Graf von Schönburg-Hinterglauchau'', 1720年 - 1799年)に嫁がせている。 == 参考文献 == * ''Mitteilungen des Vereins für die Geschichte Potsdams'', Band 3, S.91 Digitalisat * Joachim Engelmann, Günter Dorn: ''Friedrich der Große und seine Generale''. Friedberg 1988. * Hanns Joachim Friedrichs: ''Weltgeschichte, eine Chronik''. Naturalisverlag * Hannsjoachim W. Koch: ''Geschichte Preußens''. Bertelsmann-Verlag * 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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