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カール・ゴッチ(Karl Gotch、1924年8月3日 - 2007年7月28日)は、プロレスラー、プロレスコーチ。本名はカール・イスターツ(Karl Istaz)。1961年まではリングネームとしてカール・クラウザー(Karl Krauser)と名乗っていた。プロフィール上はドイツ・ハンブルク出身とされているが、実際はベルギー出身と言われている〔「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチはベルギーで生まれ、16歳の時に仕事を求めてブリュッセルからドイツへ移り住んだと述べている。また、週刊プロレス(ベースボール・マガジン社)2007年8月15日号に掲載された斎藤文彦による追悼寄稿において、ゴッチ自身は「ベルギーのアントワープ生まれ」と話していたことが記されている。〕。得意技はジャーマン・スープレックス。 == 来歴 == レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得〔Scientific Wrestling 参照。〕。ロンドンオリンピック(1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場〔World Olympians Association に1924年8月3日生まれのベルギー代表選手として"Karel Istaz"の名が記載されている。Olympic Games Museum のOfficial Reportでは、"Istaz, K."はグレコローマンおよびフリースタイルレスリングのライトヘビー級に出場している。また、「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチも同大会への出場を認めている。〕。1950年"Karel Istaz"のリングネームでプロレスデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスのビリー・ライレージムでビリー・ジョイスについてランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を練習する。 1959年にカナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。1960年にアメリカへ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。オハイオ州のMidwest Wrestling Association(MWA)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改める〔この改名はMWAのプロモーターであったアル・ハフトの意向によるものと言われている(ハフトはかつてヤング・ゴッチというリングネームのプロレスラーであった)。また、試合をする地方によって、「クラウザー」と「ゴッチ」を使い分けていた時期もある。〕。1962年8月31日オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、American Wrestling Alliance(オハイオ版AWA)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。1967年カリフォルニア州ロサンゼルスのWWAに参戦すると、同年"アイアン"マイク・デビアスをパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。同年6月30日、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。1968年アメリカ市民権を取得。1971年WWWF(後のWWE)へ参戦すると、レネ・グレイをパートナーとしてWWWF世界タッグ王座を獲得。しかし、ルー・テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を持つ。 日本においては、1961年4月日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クラウザー(''Karl Krauser'')のリングネームで初来日。吉村道明を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開する(試合は引き分け)。力道山とも対戦し、引き分ける。なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権に挑戦が決まっていたが怪我で断念。 1968年1月に日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックの高さから「プロレスの神様」とも称されるという。 その後はハワイで清掃関係の企業をしていたが、1971年3月国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールド・シリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーがリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。 1972年1月の新日本プロレス設立に選手兼ブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。その後、フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」において、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らプロレスラーを数多く育成する。1982年1月1日後楽園ホールにおいて藤原喜明とエキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。 2006年7月より藤波辰爾、西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年はタンパの自宅に西村が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を行っていた。2人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。前田日明はその話を聞き、後輩である西村に恩義を感じている。 2007年7月28日21時45分、アメリカ合衆国フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。2007年7月30日発行の東京スポーツ紙の記事では『大動脈瘤破裂』が死因だったとしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・ゴッチ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Karl Gotch 」があります。 スポンサード リンク
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