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カール・エドワード・グルンスキー(C.E.グルンスキー、Carl Edward Grunsky、1855年-1931年)はアメリカ合衆国の土木技師、地質学者、都市計画家。19世紀半ばに活躍。著書『堰堤と貯水池に就いての所感』(Comments on a Few Dams and Reservoirs)は、日本でも1931年に世界動力会議大堰堤国際委員会日本国内委員会から出版されている。 ==略歴== 地質学と土木工学の分野に入る前に、もともとのキャリアは薬学を追求。ドイツシュトゥットガルトで有名な工科学校の工学部進学を機に、彼は専攻を土木工学に切り替える。同年12月にカリフォルニアに戻って、彼はデータを収集し、かんがい排水の相対見積りを行う国務エンジニアで採用された。 1882年から1888年、サクラメントアットステート・エンジニアの部門のチーフアシスタントとして従事していた。その時以来、彼は最も実用的なスキルを必要とする様々なプロジェクトに自分の職業を追求してきた。1888年からは、Colusa郡の水路網構築のチーフエンジニアとして雇われた。またColusaの他クラフトやオーランドサウスサイド灌漑地区のための調査を行っている。その能力は、1889年に河川や港湾での検査委員会のメンバーに連ねるほどに賞賛された。こうして技術者として信頼を得て、1904年から1905年、パナマ運河委員会彼はその結果の一員となった。1905-1907から、彼は米国の干拓サービスのためのコンサルティングエンジニアを務めた。 彼は1898年からカリフォルニア科学アカデミー会員となっているが、1904年に理事会にメンバーを連ねる。1911年に、彼は事務局長に昇進し、1912年に会長に選出された。 米国土木学会は1910年に加入、彼は1924年に1922年と会長、副会長に選出された。1924年に彼はまた米国科学振興協会の太平洋部門長であった。 晩年の1927年からは上海の都市建設に参画し、1930年から1931年にかけてグレーター上海計画の委員会を務めた。1930年から1931年まで、アメリカ合衆国の技術評議会会長だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・グルンスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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