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カール・ケッペン
カール・ケッペン(〔山田1996,p11〕、〔、〔〔萩原2007,p245〕、または〔、1833年〈天保4年〔〉 - 1907年〈明治40年〔〉6月28日)はドイツの下士官。明治の初めに兵制改革を行った紀州藩でプロイセン式陸軍を指導するため派遣されたお雇い外国人。日本ではプロイセン人として遇された。別称として、カッペン、カッピン、コッピンと呼ばれる場合もある。 == 来日まで == 1833年(天保4年〔)、ケッペンはドイツ統一前のハノーバー王国に近い小国のシャウムブルク=リッペ侯国の首都ビュッケブルク市ヘルデル・シュトラッセの仕立屋ヨハン・F・ウィルヘルム・ケッペンの子として生まれた。カトリック教徒として洗礼を受け、後の1850年(嘉永3年)に堅信礼を施されプロテスタント・ルター派に転じた〔山田1996〕。 ギムナジウムで約10年の教育を受けて裁判所の書記官を1年間勤めた〔メール1989〕が、1851年(嘉永4年〔)4月にシャウムブルク=リッペ侯国の徴兵制度における代人としてライフル大隊に入隊。1853年(嘉永6年)7月に伍長、1859年(安政6年)5月に曹長、同月更に特務曹長に昇進した。1860年(万延元年〔重久1976,p174〕)にはエリザベート・シュルツと結婚し、後に2人の息子と3人の娘を授かることとなる。1866年(慶応2年〔)の普墺戦争ではオーストリア帝国側として参戦することとなり、侯国から2個中隊をマインツへ派遣したがケッペンは本国に留まり戦闘に加わらなかったが、最終的には勝利したプロイセン軍の侵入を受けた。戦後、シャウムブルク=リッペ侯国はプロイセン王国を盟主とする北ドイツ連邦の構成国となり、独立は守ったが軍権はプロイセンに握られたため、改組したライフル大隊でケッペンは歩兵小隊長を務めた。1867年9月、約16年の軍隊生活より退役したケッペンはビュッケプルグで年金を受け、写真館を営んだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カール・ケッペン」の詳細全文を読む
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