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フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー
フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー(Friedrich Carl von Savigny, 1779年2月21日 - 1861年10月25日)は、ドイツのローマ法学者。近代私法(民法・国際私法)の基礎を築いた法学者であり、大学教授、またプロイセンの枢密顧問 (Staatsrat)、裁判官、法律改正大臣でもあった。妻のクニグンデ・ブレンターノはブレンターノ兄弟姉妹の1人。 == 生涯 == フランクフルト・アム・マインで生まれる。祖先は第3回十字軍に参加したフランス騎士にまで遡れ、17世紀にユグノーであったためにドイツに亡命して財産を築いていた。名家であったが、12歳で父を失い、母もそのショックで翌年に死去、12人いたとされる兄弟もこの時までに全員死去していた。そのため、帝室裁判所判事であった遠縁に引き取られた。生前の母の勧めでフランス語を、育ての親の勧めで法律学を学び、16歳でマールブルク大学に入り、さらにゲッティンゲン大学でも学んだ。マールブルク大学では、ドイツ・ローマ法史における最後の典雅法学者だったフィリップ・フリードリヒ・ヴァイス(Philipp Friedrich Weiss, 1766年 - 1808年)教授と出会い、ローマ法研究に関心を抱いた。1800年に刑法に関する学位論文でマールブルク大学から学位を受け、同大学での講師を経て翌年には早くも員外教授に抜擢された。1803年に『占有権論』(''Das Recht des Besitzes'') を発表すると、翌年からヨーロッパ各地を旅してローマ法の史料を収集した。門人で後に論敵となるヤーコプ・グリムと出会ったのもこの旅の時であった。1810年に新設のベルリン大学に招聘され、2年後には創立以来の初代総長ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの後を受けて33歳で総長に抜擢された。また、欧州中を旅行して文献を収集し、『中世ローマ法史』(''Geschichte des Römischen Rechts im Mittelalter'') 全6巻を著した。
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