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カール・シュヴァルツェンベルク : ウィキペディア日本語版
カレル・シュヴァルツェンベルク

カレル・シュヴァルツェンベルク〔他の日本語表記としてはカレル・シュワルツェンベルグなどがある。〕(、1937年12月10日 - )は、チェコの政治家。連立与党3党の1つ「TOP 09」党党首で、現外務大臣(2度目)および第一副首相。ボヘミア有数の大貴族だったの現家長(1979年 - )〔Schwarzenberg talks election . The Prague Post (1937-12-10). Retrieved on 6 July 2011.〕であり、ドイツ語の全名はカール・ヨハンネス・ネポムク・ヨーゼフ・ノルベルト・フリードリヒ・アントニウス・ヴラティスラウ・メナス・シュヴァルツェンベルク()。伝統的な貴族称号を重んじてシュヴァルツェンベルク侯()と呼ばれることもある〔Schwarzenberg . Angelfire.com. Retrieved on 6 July 2011.〕〔正式な貴族称号はシュヴァルツェンベルク侯、ズルツ伯、クレットガウ方伯(諸侯格)およびクルマウ公()だが、法的には無意味なものとなっている。〕。
== 経歴 ==
弟系シュヴァルツェンベルク侯家家長(、1911年 - 1986年)と、その妻のフュルステンベルク侯女(、1905年 - 1988年)の間に長男(第2子)として生まれた。1948年に共産党クーデターが起きると、家族で国外に亡命し、スイス国籍を取得してオーストリアに移住した。このためチェコスロバキアとスイスの二重国籍者となった〔
〕。ウィーン大学グラーツ大学法学を、ミュンヘン大学林学を学んだ〔Karel Schwarzenberg | Government of the Czech Republic . Vlada.cz. Retrieved on 6 July 2011.〕。
1960年代より保守派のオーストリア国民党の党員として活動し、同党内ではシュヴァルツェンベルクを将来の外相候補に推す声も挙がった〔Paul Lendvai, ''Mein Österreich – 50 Jahre hinter den Kulissen der Macht'', 4th ed., Ecowin Verlag, 2007, ISBN 3-902404-46-9, p. 89〕。その後、出身国チェコスロバキアの共産党独裁体制に対する抗議活動や人権擁護活動に活動の重点を移した。1984年から1991年まで、の委員長を務め、1989年にを受賞した。同年末にビロード革命が起きてチェコスロバキア共産党の独裁が終わると、同国に帰国した。
1990年7月から1992年7月にかけて、チェコ大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの大統領府長官を務めた。ハヴェルとは長年の友人で、ハヴェルが1996年に笹川陽平とともに創設したのメンバーにも名を連ねた。2004年11月にはプラハ第6区選出の元老院議員に就任した。2005年5月、ドイツ連邦議会議員と一緒にキューバを訪れた際に反体制派と会合を開こうとしたため、キューバを追い出された〔EU politicians expelled from Cuba , BBC.co.uk, 20 May 2005, retrieved 16 October 2009〕。2006年に元老院の外交・防衛・安全保障委員会委員長を務めた。
2007年1月から2009年5月まで、第2次ミレク・トポラーネク内閣の外務大臣を務めた。緑の党がシュヴァルツェンベルクを外相に指名した時、大統領ヴァーツラフ・クラウスがシュヴァルツェンベルクはオーストリアと強い結びつきがあり、国益を守る人物として不足があると反対したため、騒動が起きている〔
〕。2009年上半期には欧州連合理事会議長国担当閣僚となった。同年、とともに新党「伝統・責任・繁栄09(TOP 09)」を結党し、2010年チェコ議会下院選挙で総投票数の16%を獲得した。同党が下院の第3勢力となり、3党による中道右派連立政権において、第一副首相兼2度目の外務大臣に就任した。
2011年10月6日から8日にかけ、日本を公式訪問した〔カレル・シュヴァルツェンベルク第一副首相兼外務大臣の日本訪問 、チェコ共和国大使館公式HP、2010年10月11日〕。外務大臣玄葉光一郎ら政府要人と会談したほか、皇太子徳仁親王にも謁見している〔。東日本大震災で深刻な被害を受けた宮城県福島県を訪れ、福島県には線量計10基を贈呈した〔。福島県で活動するカトリック教会には、チェコで崇敬を集めるのレプリカを贈った〔。
2013年の大統領選挙に立候補し、1月11日から12日にかけて行われた投票の結果、得票率23%で2位となり、1位のミロシュ・ゼマン元首相(得票率24%)とともに1月25・26日投票の決選投票に進んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Karel Schwarzenberg 」があります。



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