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ガイハトゥ( 転写: 、 転写: 、海合都 キリル文字転写: ?-1295年3月24日)またはゲイハトゥ(Geykhatu)は、イルハン朝の第5代君主(ハン 在位1291年7月23日 - 1295年3月24日)。『集史』などのペルシア語資料では كيخاتوKaykhātū と表記される。第2代君主アバカ・ハンの次男で、母はトトカリウト・タタル氏族のノクダン・ハトゥン〔アバカの大ハトゥン(正妃)であったドルジ・ハトゥンの死後にその地位を継いだ人物で、チンギス・ハンの第3皇后イェスルン、第5皇后イェスイ姉妹らの姪にあたる。〕。先代のアルグンの異母弟にあたる。 == 生涯 == === 即位以前 === 叔父のテグデルが即位した後の1283年初春に兄のアルグンがカラウナス万戸隊とともに駐留していた冬営地バグダードで蜂起した時、従弟のバイドゥらとともにこれに従っていた。アルグンは父アバカが領有していたホラーサーン地方への入府を口実にイラン高原へ出発した。ライなど諸都市で独自に財務官僚たちの任免を行い軍資金の徴発を行い始めたため、タブリーズのテグデルとの対立は不可避になった。1284年1月18日、アルグンを擁護していた叔父でテグデルの次弟であった王族コンクルタイが、テグデルの筆頭部将アリーナクに捕殺される事件が起き、アルグン麾下の諸将や官僚たちもタブリーズへ連行された。ゲイハトゥはこの時辛くもホラーサーンへ逃げ延びる事が出来た。 1284年8月11日、アルグンが即位し王族たちに各地の所領の統治権を任命しているが、ゲイハトゥはルーム・セルジューク朝のあるアナトリア方面を任されていたようである。 1291年1月19日、アルグンが冬営していたアッラーン地方(現在のアゼルバイジャン共和国)で病没した。アルグン麾下の諸将は国内各地の王族たちへ訃報を伝えるため使者を派遣したが、アバカ家の親衛軍であったカラウナス万戸隊長タガチャルは、ホラーサーンを領有し部将ノウルーズ麾下のカラウナス軍と対立していた嫡子ガザンの即位を警戒していた。そのためアナトリア(ルーム)地方のガイハトゥの推戴を企図して使者を送ったが、アナトリア地方の勢力が権力を握る事を恐れ、アルグンの将軍たちはバグダード方面にいたバイドゥの推戴を決めた。この知らせを聞いたガイハトゥは怒ったが、バイドゥは自分が年長者でないこととガイハトゥからの報復を怖れてこの勧誘を固辞した。アルグンの正妃ウルク・ハトゥン(オルジェイトゥの生母)がゲイハトゥの即位に賛意を表したため、5月には君主位の継承がほぼ固まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゲイハトゥ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gaykhatu 」があります。 スポンサード リンク
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