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ガイ・カールトン(英:Guy Carleton、1724年9月3日 - 1808年11月10日)は、アイルランド系イギリス人の軍人である。初代ドーチェスター男爵、バス勲章。1768年から1778年までに2度にわたってケベック植民地の知事を務め、この間と1785年から1795年にイギリス領北アメリカ総督を務めた。 カールトンはアメリカ独立戦争でイギリス軍を指揮した。まず1775年にアメリカ大陸軍がカナダに侵攻した時にケベック市を防衛し、1776年には大陸軍に反撃して植民地から追い出した。1782年と1783年にはイギリス軍北アメリカ総司令官となった。この任務にあった1783年、イギリス軍、ロイヤリストおよび数千人の解放奴隷をニューヨークから撤退させる指揮を執った。 弟のトマス・カールトンと共に軍隊と政界での経歴を上げていった。 == 初期の経歴 == ガイ・カールトンは17世紀以来アイルランドに居住したプロテスタントの軍人一家に生まれ、兄弟もイギリス軍に仕えた。カールトンが14歳の時に父のクリストファー・カールトンが死に、母は再婚した。カールトンは初等教育しか受けなかった〔Nelson p.17〕。 1742年、カールトンが17歳の時に第25歩兵連隊の少佐に任官され、1745年には中尉に昇進した。この期間に後にカナダのフランス軍を攻撃したときの指揮官ジェームズ・ウルフと友人になった。1745年のジャコバイトの反乱のカロデンの戦いでは、ウルフとともにカールトンが従軍した可能性がある〔Wrong p.224〕。カールトンの兄弟であるウィリアムとトマスも陸軍に入った。 1740年にヨーロッパでオーストリア継承戦争が始まった。イギリス軍は1742年からヨーロッパ大陸での戦争に入っていたが、カールトンとその連隊がフランダースに派遣されたのは1747年になってからだった。その部隊はフランス軍と戦ったが、包囲されていたオランダの重要な要塞であるベルゲン・オプ・ズーム要塞の陥落を阻止できずに、休戦によって戦争が終わった。1748年、アーヘンの和約が調印され、カールトンはイギリスに帰還した〔Nelson p.18-19〕。このときカールトンは中尉のままであり、終戦によって昇進の可能性が限られたものになったと考えた。 1751年、カールトンは近衛歩兵第一連隊に加わり、1752年に大尉に昇進した。先の戦争の戦場を巡るツアーで、ウルフの提案でリッチモンド公爵のガイドに選ばれたとき、カールトンの軍歴に大きな箔が付いた。リッチモンドはその後カールトンにとって影響力ある後援者になった〔Nelson p.19〕。その後に続く年月で、カールトンはより目覚しい速度で昇進するようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガイ・カールトン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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