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ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal)は、第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。現地のソロモン諸島の住民の間ではビッグ・デス(Big Death おびただしい死)と呼ばれている。この戦いで日本軍は補給に失敗し、多くの餓死者を出したため日本軍の将兵は現地を餓島と呼んでいた。また周辺海域で行われた海戦では多数の艦艇船舶が沈没したため連合国側の将兵はガダルカナル島北方の海域をアイアンボトム・サウンド(Ironbottom Sound 鉄底海峡)と呼んでいた。 == 背景 == 1941年12月、ハワイ空襲、北部マレー半島上陸、比島航空撃滅戦をもって開始された南方作戦は、予想以上に順調に進展し、1942年3月9日蘭印軍の降伏によって概成した。予期以上に進展したので、1942年1月には、ビルマ、アンダマン諸島、ポートモレスビーなどの攻略を発令し、戦略態勢の強化を企図できるようになった。そのため、第二段作戦の計画を速やかに策定しなければならなかった〔戦史叢書77大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで1頁〕。1942年4月、海軍で第二段作戦が立案されたが、軍令部は米豪遮断を目的とするフィジー方面の攻略を主張し、連合艦隊はアメリカを早急に戦意喪失させるためにミッドウェー作戦とハワイ攻略を主張した。最終的にミッドウェー作戦は認められ連合艦隊も軍令部に歩み寄って、ニューカレドニア、フィジーは攻略確保、遠方のサモアは攻略破壊後に引き上げることを認めた〔戦史叢書43ミッドウェー海戦45頁〕。 このように海軍は積極的な侵攻作戦によって、連合国の反攻拠点であるオーストラリアとアメリカの分断を考えたが、日本陸軍は、あくまで日中戦争(支那事変)解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって大兵力を中国の支那派遣軍や、満州の関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。 この米豪分断作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)から成るものであった。ところが日本海軍はミッドウェー海戦において主力航空母艦4隻を失うこととなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなった。1942年7月11日、大海令二十号を発令。「大海令第十八号に基く連合艦隊司令長官の「ミッドウェイ」島攻略及大海令第十九号に基く連合艦隊司令長官の「ニューカレドニア」「フィジー」諸島並に「サモア」諸島方面要地攻略の任務を解く。」これによってMI作戦、FS作戦の中止が決定。第二段作戦の計画は破たんしたが、日本は米豪分断の目的を放棄せず、基地航空部隊をラバウル以南に進出させて達成しようとした。 ガダルカナル島のすぐ北に位置するフロリダ島のツラギは、珊瑚海海戦直前の5月3日に日本軍が占領していた。 すぐにツラギには哨戒活動用の水上機が配備されたが、ツラギの部隊はガダルカナル島に飛行場適地があることを報告していた。 日本はガダルカナル島に飛行場を建設してラバウル以南の前進航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を拡張しようと考えた。6月24日附で南洋諸島の航空基地確保・設営および強化を目的とした『SN作戦』が下令され、支援部隊(第六戦隊・第十八戦隊)、第一護衛隊(夕張、卯月、第29駆逐隊《追風、夕月》)、第二護衛隊(第30駆逐隊《睦月》)という兵力部署が決まる〔#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)40-41頁『SN作戦計画の下令』(望月、弥生、夕凪は護衛任務。朝凪整備中)〕。このガダルカナル島基地建設は軍令部作戦課(大本営海軍)から参謀本部作戦課(大本営陸軍)に文書で通知されたが、陸軍では作戦課同士でのやり取りにとどまり、陸軍内部に伝達が行われなかったため、戦後「基地建設の事を陸軍は知らされていなかった」と主張するものもいる。 7月6日に輸送船吾妻山丸によって輸送された第11設営隊が上陸し、その後すぐに第13設営隊もガダルカナル島に到着した。第六水雷戦隊は同島飛行場建設をおこなう陸戦隊や基地設営隊輸送船の護衛に任じた〔#叢書49南東方面44頁〕。 上陸した設営隊員のうち、第11設営隊員1580名は滑走路、第13設営隊員1221名は誘導路や通信施設などの建設を担当した。設営隊にはロードローラー、トラック、ミキサー車などが与えられ、一部の作業については機械化が行われていた。しかし、大部分の作業は手作業で行われ、鉈や鋸などでジャングルを切り拓いた後、スコップや鶴嘴で飛行場を造成し、もっこで土砂を運んだため、設営隊員たちは毎日朝5時から夜の10時まで作業を行った。 この頃のガダルカナル島には、時折偵察のためにエスピリツサント島やニューカレドニア島から米軍のB17爆撃機が飛来し、建設現場に爆弾を落として、滑走路に穴を開けてゆくこともあった。しかし、設営隊員たちは休憩時間や非番の時には近くの川やスコールで水浴をしたり、沼地ではワニを山では水牛狩りを楽しんだりしていた。 大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊(第18警備隊基幹)を合わせても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つ1942年(昭和17年)5月3日のMO作戦時に、近接するツラギ島には水上機基地が設けていた。ガダルカナル島の防備について、井上成美中将(第四艦隊司令官)は「第八根拠地隊(南東方面の地上部隊)に兵器をやりすぎた」と言うほど、楽観的であった〔#高松宮日記4巻552頁〕。 しかし、日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となるウォッチタワー作戦を発令した。米国陸軍マッカーサー大将は、ウォッチタワー作戦の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張したが、海軍作戦部長アーネスト・キング大将は太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に反対したため、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への準備が進められた。 一方日本軍は中止になったMO作戦に代わる作戦として、ニューギニア島のソロモン海側から最高峰4,000メートルのオーウェンスタンレー山脈を越えて、ポートモレスビーまで直線距離にして220キロを陸路侵攻するという「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を立案していた。5月18日、ソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面を担当する戦略兵団として第17軍が編成。7月18日にポートモレスビー攻略命令を発した。7月21日には先遣隊の独立工兵第15連隊がブナの近くのゴナに上陸していた。 ガダルカナル島では8月6日の夕食時に滑走路の完成と上陸1カ月を記念して、海軍設営隊に1人あたり日本酒1合の配給があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガダルカナル島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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