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ガブロンツ・アン・デア・ナイセ : ウィキペディア日本語版 | ヤブロネツ・ナド・ニソウ
ヤブロネツ・ナド・ニソウ(チェコ語: Jablonec nad Nisou 、ドイツ語: Gablonz an der Neiße ガブロンツ・アン・デア・ナイセ)は、チェコ共和国、リベレツ州の都市。ボヘミア地方に属する。イゼラ山地のリゾート地、教育の中心、ガラスと宝飾品の生産地として知られている。「ナド・ニソウ」は、「ナイセ川(チェコ語ではニサ)河畔の」を意味する。 == 歴史 == ヤブロネツの村は、14世紀にできた。初めて公文書に名前が記録されたのは1356年である。ヤブロネツとは『リンゴの木のある土地』という意味であった。1496年8月、村は、ボヘミア国王イジー・ス・ポジェブラトと、ラウジッツ地方の自治体との戦いで、暴徒と化したラウジッツ側によって火を放たれた。18世紀、最初の人工宝石がつくられ、最初の輸出者J・F・シュヴァンの名はヨーロッパ中に広まった。ガブロンツの村は、1808年4月21日に神聖ローマ皇帝フランツ2世によって郡区に昇格され、1866年3月28日には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって町とされた。 19世紀、町は繁栄し富を得た。1870年から1871年にかけての普仏戦争が、ビジネスのためのガラスと人工宝石製造において、ガブロンツの貿易業者が外国市場を掴むよう、最も危険な競争を発展させた。ガラスの堅調な流れ、そして人工宝石が、続く60年間に信じられないほどの広い範囲の製品を町から生み出した。繁栄と富は、人口の増加とともに協力して歩んだ。しかしヤブロネツの状況は劇的に変化した。ガラスと宝石産業の深刻な衰退が、1929年の「ブラックフライデー」と1930年代の経済危機でもたらされた。1938年10月、ドイツ人住民が多数派を占めるズデーテンラントと呼ばれる地方にあったガブロンツは、 ミュンヘン会談後にヒトラーのナチス・ドイツに奪われた。1945年以後、ドイツ人は追放で追われ、替わってチェコ人が入植し、市名をヤブロネツと改名した。ガブロンツから追われたドイツ人たちは、1945年以後、バイエルン州のカウフボイレン近郊にあるノイガブロンツ(:de:Neugablonz)、オーバーエスターライヒ州のエンス(Enns)の郡区をつくった。
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jablonec nad Nisou 」があります。
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