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キュビスム(; 「キュビズム、キュービズム」、立体派)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。 == 歴史 == キュビスムの出発点は、ピカソが1907年秋に描き上げた『アビニヨンの娘たち』(Les demoiselles d’Avignon)である。この絵をピカソはごく一部の友人にだけ見せたが、反応は芳しいものではなかった。アンリ・マティスは腹を立て、ブラックは「三度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われたようものだ」と言い、アンドレ・ドランはピカソがそのうち首を吊るのではないかと心配したという。 しかしブラックはピカソの仕事の重要性にすぐに気づき、ひそかに『大きな裸婦』(1908年)を描いてそのあとを追った。そしてポール・セザンヌゆかりのエスタック地方に旅し、『エスタックの家』をはじめとする7点の「セザンヌ的キュビスム」の風景画を描き、1908年秋にダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊で公開した。これを見た批評家のルイ・ヴォークセルが『ジル・ブラス』紙上で「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書いた。これがキュビスムの名の起こりと言われている。もっともこの言葉は、サロン・ドートンヌの審査の席でマティスが先に使っている(ブラックはこの展覧会に7点の作品を持ち込んだが5点の展示を拒否され、これを不服として全作品を引き上げている)。「キュビスト」という言葉は1909年の『フィガロ』誌が初出である。 翌1909年からピカソとブラックは共同でキュビスム追究を始めた。1911年ごろの作品はどちらに帰属するのか判別しがたいほどよく似ている。このころ、ふたりはほとんど作品を公開していない。ピカソとブラックの共同作業は、ブラックが第一次世界大戦でフランス陸軍に召集される1914年まで続いた。 キュビスムがはじめて世に知られることになった契機は、1911年の第27回アンデパンダン展である。ピカソとブラックの仕事に影響を受けたピュトー・グループの画家たちが会場の一室を占拠し、キュビスムの一大デモンストレーションを行った。観衆はそれらの「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせた。この事件は、詩人で批評家のギョーム・アポリネール、アンドレ・サルモン、ロジェ・アラールが意図的に仕掛けたもので、その呼びかけに応じて参加した画家はアンリ・ル・フォーコニエ、フェルナン・レジェ、ロベール・ドローネー、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、マリー・ローランサン、マルセル・デュシャン、ロジェ・ド・ラ・フレネー、フランティセック・クプカ、フランシス・ピカビア、そして彫刻家のアルキペンコらである。彼らはこれに続き、サロン・ドートンヌ、翌1912年の第28回アンデパンダン展、ボエティー画廊における「セクション・ドール(黄金分割)」展と波状的に示威活動を行った。この年、フランス下院で「キュビスム非難演説」が行われた。 ピュトー・グループの活動は短く、才能に恵まれた何人かの画家はすぐに別の道を歩み始めた。ドローネー、ピカビアは抽象絵画、マルセル・デュシャンは『自転車の車輪』などのレディ・メイドでダダイスムの先駆者となる。 シャルル・エドゥアール・ジャンヌレとアメデエ・オザンファンによる『キュビスム以降』 (Après le Cubisme) は、1918年に刊行されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キュビスム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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