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キュラソー (HMS Curacoa, D41) は、イギリス海軍の軽巡洋艦。シアリーズ級軽巡洋艦の1隻。艦名はカリブ海のキュラソー島に因む。その名を持つ艦としては4隻目。 キュラソーは第二次世界大戦の間に事故で失われた。事故現場は1986年の戦跡保護法によって保護されている〔Designation under the Protection of Military Remains Act 1986 by SI2008/950, Office of Public Sector Information, The National Archives. Retrieved 2008-07-17.〕。 ==艦歴== キュラソーは1916年7月にペンブルック・ドックのハーランド・アンド・ウルフ社で起工した。1917年5月5日に進水し、1918年2月18日に就役した。1919年5月13日、バルト海で触雷。修理後は大西洋艦隊や地中海艦隊に所属。 1935年の映画『たった一人の海戦 ''Brown on Resolution''(:en:Brown on Resolution (film))』ではドイツの巡洋艦役として出演している。第二次世界大戦の初期には本国艦隊に所属し、防空巡洋艦への改装中であった。改装完了後、1940年4月にノルウェーの戦いに参加、アンダルスネスで対空防御に4日間従事したが、4月24日にドイツ空軍機による爆弾投下で大きく損傷し、修理のためイギリスに帰還、作業は8月まで及んだ。 1941年8月、ノルウェー沖で損傷したフランス潜水艦リュビを駆逐艦ライヴリー、ライトニングとともにダンディーまで護衛〔''Fighting Flotilla'', p.117〕。 1942年10月2日、キュラソーはアメリカ陸軍第29歩兵師団の兵20,000名近くを乗せた客船クイーン・メリー (''RMS Queen Mary'') をアイリッシュ海で護衛していた。アメリカ兵達はヨーロッパ戦線への援軍であった。アイルランドからおよそ60km北方を航行中、クイーン・メリーは十分な距離を取らぬままキュラソーの航路を横切った。クイーン・メリーは28ノットの速度でキュラソーの船体中央部に衝突、キュラソーは真っ二つに折られて沈没した。この事故により338名が死亡した。クイーン・メリーはUボートによる攻撃の危険を避けるためそのまま航行を続けた。数時間後に船団の先導艦がキュラソーの生存者99名を救助した。その中には艦長のジョン・W・バウドウッド大佐も含まれた〔〔〔uboat.net - Allied Warships - Light cruiser HMS Curacoa of the Ceres class 〕。 事故原因はいくつかの要素が複合したものであった。クイーン・メリーの船長は護衛艦がクイーン・メリーの航路に従って航行し、調整を行うだろうという仮定をした〔"Queen Mary / Curacoa Crash" , Disasters of the Century. History Television, Canada.com Network. CanWest Media Inc, 2009.〕。他の船においては、キュラソーのバウドウッド艦長は追い越す船が譲らなければならないものだと考えていた。両船の航路が重なっており、クイーン・メリーの一等航海士は航路修正の必要を報告したが、船長はそれを命じるのを忘れていた。 キュラソーの喪失は戦後まで報告されず、海軍は終戦後直ちにキュナード・ホワイト・スター・ラインを告発した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キュラソー (軽巡洋艦)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 HMS Curacoa (D41) 」があります。 スポンサード リンク
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