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キリスト教神秘主義(キリストきょうしんぴしゅぎ)は、人間が、キリスト教の神、イエス・キリスト、聖霊を直接経験するための哲学と実践である 〔「経験」とは、通常は、神を直接知覚することを言うのであるが、経験に、単なる心理的な状態、もしくは出来事を体験することを含めるかどうかについては異論があり、この語を用いる際は注意を要する。〕。 伝統的には、普通、以下の3つの実践が行われる。 *祈り(キリスト教上の瞑想も含む) *自己否定(断食や、いわゆる苦行を含む) *他者への奉仕(一般には、施しである) キリスト教神秘主義では、聖書の文句は譬喩的に解釈される。例えば、イエスの山上の垂訓(マタイによる福音書5-7章)は、全体として、「神との合一」を説くものとして理解される。 キリスト教の教理では、一般に、全ての人々(または少なくとも全てのキリスト教徒)の中に神が住まわり、イエス・キリストを信じることを通じて神を直接経験できるとされている。一方、キリスト教神秘主義は、知性では到達できない霊的な真理を、おもに「キリストに倣う」ことにより、把握しようと努める。 == 聖書上の根拠 == キリスト教神秘主義の伝統は、キリスト教史そのものと同じくらい古い。少なくとも新約聖書の3つの文書には、後のキリスト教神秘家の思想を思い起こさせる主題が幾つも見られる。 まず、「ガラテヤの信徒への手紙」(2:19-20)には、次のようにある。 :わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。――新共同訳。以下同。 キリスト教神秘主義にとって、次に重要な一節は「ヨハネの手紙一」(3:2)である。 :愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 そして3番目は、(とりわけ東方キリスト教神秘主義にとって重要なのだが)、「ペトロの手紙二」(1:4)である。 :この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。 また、キリスト教神秘主義においては、以下の2点が主要な主題である。 # (キリストに倣った)人間と神との「霊的な合一」 # 「鏡におぼろに映った」ようではなく、はっきりとありのままに知覚・経験される「神の完全な姿」 これらの点について、「コリントの信徒への手紙一」(13:12)には、以下のようにある。 :わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 他にも神秘体験の記述が見られる。例えば、「コリントの信徒への手紙二」(12:2-4)には、パウロが、ある人が、おそらく体を離れて「第三の天」まで引き挙げられた例を紹介している。 :わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天まで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 このような神秘体験は、おそらくイエスの山上の変容の際にも起こった。共観福音書に確証されているように、この時、イエスは3人の使徒、すなわちペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを率いて、高い山に登り、そこで彼は変容したのである。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そこへ、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合った。そうして、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キリスト教神秘主義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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