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クオリア((複数形)、(単数形))とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと〔Tye, Michael, 「」、、Edward N. Zalta編。以下記事冒頭部より引用「」〕、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう〔日本語では単数形と複数形の区別がないため、英語文献を読む際はこの点やや注意が必要である。日本語で「クオリア」といった場合、それは「赤さ」や「痛み」などひとつひとつの質を指していることが多い。つまり英語で言う「」にあたる意味で使われていることが多い。しかし英語で「」といったときは、「複数の」つまり「赤さや痛みなど」という意味で使われていることが多い。〕。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。 == 概要 == 簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。 外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される〔ここは議論を大きく簡略化している。何が知覚される、または体験される情報となるかは、刺激の強度や持続時間、また注意の状態に大きく影響を受ける。こうしたテーマは現在も実証的な研究のテーマとなり続けているが、当項目の問題を考える限りでは、一次的には簡略化して無視できる。〕。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。 人が痛みを感じるとき、脳の神経細胞網を走るのは、「痛みの感触そのもの」ではなく電気信号である(活動電位)。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係があるだろうものの〔皮膚をつねると痛みを感じることは分かっているが、具体的に脳のどの部位がどのような形で痛みの知覚と関わっているかは、まだ研究中の段階である。〕、痛みは電気信号や脳の状態とは別のものである。クオリアとは、ここで「痛みの感覚それ自体」にあたるものである。 クオリアは身近な概念でありながら、科学的にはうまく扱えるかどうかがはっきりしていない。この問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」〔デイヴィッド・チャーマーズがハード・プロブレムについて論じた二本の論文。「」に対して寄せられた様々な批判に答える形で出されたのが「」 * (1995年) 「」、誌 2(3): 200-219ページ、 PDF * (1997年). 「」、誌 4, 3-46ページ、PDF 〕などと呼ばれている。現在のところ、クオリアとはどういうものなのか、科学的な「物質」とどういう関係にあるのかという基本的な点に関して、研究者らによる定説はない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、様々な考え方が提出されている。 現在こうした議論は、哲学の側では心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、展開・議論されている。 また科学の側では、神経科学、認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論されている。ただし科学分野では形而上学的な議論を避けるために、意識や気づきの研究として扱われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クオリア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Qualia 」があります。 スポンサード リンク
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