翻訳と辞書
Words near each other
・ クソババアに花束を
・ クソフクロ
・ クソンユン
・ クタ
・ クタイカルタヌガラ橋
・ クタイシ
・ クタイシ (小惑星)
・ クタイシ国際空港
・ クタイシ空港
・ クタイバ・イブン・ムスリム
クタイバ・イブン=ムスリム
・ クタイ・エリオルダシュ
・ クタイ・エルヨルダシュ
・ クタイ・カルタヌガラ橋
・ クタイーシ (小惑星)
・ クタイ王国
・ クタス
・ クタドゥグ・ビリグ
・ クタニド
・ クタマク


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

クタイバ・イブン=ムスリム : ウィキペディア日本語版
クタイバ・イブン・ムスリム

クタイバ・イブン・ムスリム (、全名: )〔 (669–715/716) は、ウマイヤ朝カリフ国に仕えたアラブ人の軍人であり、ホラサーン総督となり、ワリード1世 (705–715)の時代のマー・ワラー・アンナフルの征服で知られる。 優れた兵士であり行政官であった彼は、当地域のムスリム支配を確立し、マー・ワラー・アンナフルの大半までカリフ国の領域を広げた。705年から約710年までにトハーリスターン在地の小国に対するムスリム支配を確立し、ブハラの小国を征服した。また彼は710–712にホラズムを征服してサマルカンドを獲得しソグディアナの征服を完了した。のちにシルダリヤ川渓谷への道を開き、晩年にクタイバは毎年そこへ出征してフェルガナへムスリム支配を広げた。把握する人的労働力を増やすため、クタイバは大規模な在地ホラサーン人とソグド人兵士の徴用を開始し、アラブ人ムスリム兵士軍団とともに戦わせた。ワリード1世の死のあとクタイバは新体制のもと自身の地位が危うくなり、反乱を起こしたが自軍の支持を得るのに失敗し、敗北して殺害された。マー・ワラー・アンナフルにおける彼の征服のほとんどは、彼の死後失われた。740年代になってはじめてクタイバの到達線を回復し、751年のタラス河畔の戦いのあとやっと強固にムスリム支配に置かれるようになった。
中国語資料の『冊府元亀』では“屈底波”として現れる。

==生涯==
クタイバは669年にバスラで生まれた。家族はバスラの有力者だった。彼は700/701年のアブドゥッラフマーン・イブン・アル=アシュアス (Abd al-Rahman ibn al-Ash'ath)の :en:Khurramite反乱の鎮圧に参加して頭角を表し、 イラクと東部の総督アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(:en:Al-Hajjaj ibn Yusuf)に取り立てられる。アル=ハッジャージュの庇護の下、 701年ウマル・イブン・アビー・アル=サルト(Umar ibn Abi'l-Salt)の反乱での地を獲得し、この都市の支配者となる。〔Bosworth (1986), p. 541〕そして704/705年カリフアブドゥルマリクはクタイバをホラサーン総督に任命する。クタイバを選んだことは、出身部族であり比較的弱かったバーヒラ族(bahila,:ar:باهلة)に歓迎された。この選択はどちらにも属さない支配者を与えることでホラサーンにおける南アラブ人つまり「イエメン人」(アズド族:en:azd)と北アラブ人(カイス族:en:qays)という2つの部族同盟の破壊的確執をやめさせようというアル=ハッジャージュの意図によるものだった。バーヒラ族は2つのグループに中立だったが、たいていカイス族と同盟していたので、ヤズィード・ビン・アル=ムハッラブの治世にホラサーンで優勢だったアズド族の力を弱めようというアル=ハッジャージュの政策は推進された。加えて、クタイバは自身の部族的基盤を持っていなかったため、自身の庇護者に強固に従い続けるだろうと期待された。 〔〔Gibb (1923), pp. 24–27〕〔Shaban (1970), p. 61〕〔Wellhausen (1927), pp. 429–430〕クタイバは次の10年間中央アジアで過ごし、そこのムスリム支配を固め広げた。この遠征で、彼の軍と外交と組織の能力が大いに役立ち、在地のイラン系住民と強力な「ディフカン(dihqan)」(地主)階級の支持を得ることに成功した。〔〔Gibb (1923), pp. 29–30〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クタイバ・イブン・ムスリム」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.