|
クリア・オスティリア(Curia Hostilia)は、共和政ローマの最初の元老院の議事堂である。ロームルスの時代に建設されたという伝説があり、トゥッルス・ホスティリウスが再建したとされる。 == 歴史 == この場所には古くから古代ローマ市民の集会所があった。さらに以前にはウゥルカーヌス神の小さな神殿があったとされ、王への献辞が刻まれた大理石の石碑のある石祭壇が見つかっている。この場所は周囲からは隔絶されており、低いコンクリートの塀で囲まれ、歩行者が入り込めないようになっていた。 クリア・オスティリアは3つの部屋のある建物で、その正面にローマ市民が集まるコミティウムと呼ばれる広場があった。市民はいつでもクリア・オスティリアに入っていき、議員たちの議論を傍聴することができた。 クリア・オスティリアについて、詳細はあまり判っていない。多数の文献に記されている特徴として、建物の西側の壁の外面に "Tabula Valeria" という壁画が描かれていたという。これは紀元前263年、執政官マニウス・ウァレリウス・メッサラがヒエロン2世率いるカルタゴ軍に勝利した戦いを描いたものとされている。大プリニウスは、この種の絵画としてはローマ初だとしている〔Richardson 1992, p. 102〕。 また、クリア・オスティリアがコミティウムの北側にあったことは、多くの文献で一致している〔Platner and Ashby 1929, p. 142〕。コミティウムには円形に並んだ座席があったと言われており、中心のロストラ(演説壇)で行われる演説を市民が聞くときの座席になると共に、クリア・オスティリアの入り口に向かう階段の役目も果たしていた。クリア・オスティリアの位置についてStambaughは、「クリア・オスティリアはフォルム・ロマヌム全体を支配するように高台の上に築かれた」としている〔Stambaugh 1988, p. 109〕。もしそうだとすれば、クリア・オスティリアは共和政ローマの強さの象徴となっていたと考えられる。 紀元前80年、ルキウス・コルネリウス・スッラは元老院の議員定数を増やし、そのため手狭となったクリア・オスティリアを取り壊して、同じ場所にもっと大きなクリア・コルネリアを建設した。さらにユリウス・カエサルがそれを取り壊して、クリア・ユリアの建設を開始し、アウグストゥスが完成させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリア・オスティリア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Curia Hostilia 」があります。 スポンサード リンク
|