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クリストバル・バレンシアガ・エイサギーレ(, , 1895年1月21日 - 1972年3月23日)は、スペイン・ゲタリア出身のファッションデザイナー。バスク人。バレンシアガの創設者。 == 生涯 == 1895年、バスク地方にあるビスケー湾に面した漁村、ギプスコア県ゲタリアに生まれた。母親は裁縫師であり、幼少のバレンシアガは作業を行う母親の下で過ごした〔。12歳の時に洋裁師見習いとして働きはじめ、ティーンエイジャーの時には、ゲタリアの町でもっとも高貴な身分のカーサ・トーレス伯爵夫人がバレンシアガの顧客・パトロンとなった〔。伯爵夫人はバレンシアガをマドリードに送り、そこで正式に洋裁師としての修業を積んだ〔。1919年にギプスコア県サン・セバスティアンにブティックを開店させ、やがてマドリードとバルセロナに支店を開いた〔。スペイン王室と王侯貴族がバレンシアガの顧客となったが、1936年に勃発したスペイン内戦の影響でこれらの店を閉め、バレンシアガはフランス・パリに移住した〔〔。1937年8月にはパリのジョルジュ・サンク通りにクチュールメゾンを開店させた〔。メゾンはこれ以来パリを本拠地とした。 ハーパース・バザー誌の編集者カーメル・スノーは初期の顧客である。1950年代から1960年代にかけてのオートクチュールの顧客には、ポーリーヌ・ド・ロートシルト、グロリア・ギネスらがいた。当時、コルセットでウェストを絞るデザインが流行していたのに対し、1955年発表のチュニック・ドレスや1957年のサック・ドレスなど、平面的なフォルムの作品を発表、多くの支持を得た。ユベール・ド・ジバンシーはアシスタントをつとめたことがあり、オスカー・デ・ラ・レンタも影響を受けたという。アメリカ合衆国の元大統領ジョン・F・ケネディは妻のジャクリーンと連れだってバレンシアガの服を購入していた。 1960年にはスペイン出身のファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴンがボードゥアン1世と結婚し、バレンシアガはファビオラのウェディングドレスを制作した。王妃は後にウェディングドレスをクリストバル・バレンシアガ財団に寄贈している〔'' NOVIAS - Wedding dress in ivory satin and white mink - 1960 - The Queen donated her wedding dress to the Cristóbal Balenciaga Foundation.'' バレンシアガ博物館〕。 パリで働きはじめてから30年後の1968年、74歳のバレンシアガはパリ、バルセロナ、マドリード、その他の店を閉めて引退することを決めた〔、プレタポルテ部門はフランス人デザイナーのニコラ・ゲスキエールが引き継いだ。1972年3月23日、バレンシア州アリカンテ県で死去した。生前には経営の傍らでファションデザインの授業を受け持ち、教え子にはオスカル・デ・ラ・レンタ、アンドレ・クレージュ、エマヌエル・ウンガロ、ミラ・ショーン、ユベール・ド・ジヴァンシーなどがいる〔。今日、バレンシアガの高級服店はアレキサンダー・ワンの監督、グッチグループの所有の下で営業を続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリストバル・バレンシアガ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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