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クリス・マルコフ(Chris Markoff、1940年 - )は、ユーゴスラビア出身の元プロレスラー。北米に移民後、ロシア人ギミックのヒールとして活動した(ギミック上の出身地はロシアのスターリングラード)〔。 日本プロレス時代のアントニオ猪木がワールドリーグ戦で初優勝したときの対戦相手として知られる〔。 == 来歴 == 1960年にヨーロッパでデビューし、バルカン地区の王者となった後、1963年にカナダを経由してアメリカのマット界に進出したという〔。 アメリカではボリス・ボルコフ(''Boris Volkoff'')と名乗り、ニコライ・ボルコフ(後にWWFで活躍するヨシップ・ペルゾビッチとは別人)とのボルコフ・ブラザーズで活動〔。その後、1960年代中盤よりクリス・マルコフと改名し、インディアナポリスのWWAにてアンジェロ・ポッフォ(ランディ・サベージの父親)とデビルズ・デュオ(''The Devil's Duo'')なるタッグチームを結成。ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビを相手にWWA世界タッグ王座を巡る抗争を繰り広げた〔。 デビルズ・デュオ解散後の1967年11月1日には、負傷したラリー・ヘニングの代打としてハーリー・レイスのパートナーとなり、AWA世界タッグ王座を継承。しかし11月3日、シカゴにてパット・オコーナー&ウイルバー・スナイダーに敗れて王座から陥落、文字通りの三日天下に終わった。その後、1968年にテキサスのダラス地区に入り、フリッツ・フォン・エリックとテキサス・ブラスナックル王座を争っている。 1969年4月、日本プロレスの第11回ワールドリーグ戦に初来日。外国人陣営ではボボ・ブラジル、ゴリラ・モンスーンに次ぐ3番手のダークホース的存在だったが〔、モンスーンが不調だったこともあり、ブラジルと同点の首位という戦績を残す。日本人陣営もジャイアント馬場とアントニオ猪木が同点で首位となり、5月16日の東京都体育館での優勝決定戦では4選手による決勝トーナメントが行われたが、第1試合の馬場対ブラジルが時間切れ引き分けで両者失格となったため、第2試合の猪木対マルコフがそのまま決勝戦となった。試合は猪木が勝利し、マルコフは優勝を逸したものの、猪木のワールドリーグ戦初優勝の相手を務めたことで、日本のプロレス史にその名を残した(この一戦は、猪木の卍固めを一躍有名にしたことでも知られている)〔。 帰米後はロサンゼルス地区でのミル・マスカラスとの抗争を経て、同じユーゴスラビア出身のブロンコ・ルービッチとのタッグで活動。フロリダ地区では1969年10月25日、サム・スティムボート&サイクロン・ネグロを破りNWAフロリダ・タッグ王座を獲得。1971年にはダラス地区にて、ジョニー・バレンタイン&ワフー・マクダニエルなどの強豪チームとNWAアメリカン・タッグ王座を争った。 その後はフロリダを主戦場に、ボビー・シェーンと新コンビを結成。1972年12月27日、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコを下してNWAフロリダ・タッグ王座に返り咲く〔。以降1975年にかけて、マーク・ルーイン、サンダーボルト・パターソン、ロバート・フラー、ボブ・アームストロング、ティム・ウッズ、ボリス・マレンコ、ビル・ワット、ダニー・ホッジ、ボブ・ループ、ディック・スレーター、ダスティ・ローデス、ボブ・バックランドらと激闘を展開した。 この間、日本プロレスには1970年4月(第12回ワールドリーグ戦)、1971年7月、1972年8月にも来日。1972年の来日時には、同時参加していたブル・ラモスとリング外で乱闘事件を起こしている(マルコフの人種差別的な態度にラモスが激昂したことが原因とされている)〔『別冊ゴング 1978年11月号』P144-146「ロシアの妖怪クリス・マルコフの無頼漢人生」(1978年、日本スポーツ出版社)〕。1974年11月には全日本プロレスに参戦、12月6日の新潟市大会ではザ・デストロイヤーのUSヘビー級王座に、12月12日の川崎市大会ではジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にそれぞれ挑戦した。 以降も各地を精力的に転戦し、1976年12月にはマッドドッグ・バションが主宰していたモントリオールのグランプリ・レスリングにて、ジル・ポワソンと組んでジェリー・グラハム&ザ・デストロイヤーを破りタッグ王座を獲得。1977年からはハワイに進出しジョン・トロスやドン・ムラコと抗争、バディ・ローズ&ビッグ・ジョン・スタッドと共闘してアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。南半球のニュージーランドでは、1978年にレス・ソントンから大英帝国ヘビー級王座を奪取している。同年10月、ブルート・バーナード&キラー・カール・クラップとの悪党外国人トリオの一角として新日本プロレスに来日。猪木との因縁の対決が注目され、シリーズ最終戦の11月1日に愛知県体育館にてNWFヘビー級王座に挑戦するも、ここでも卍固めで敗れ去った。 1979年はジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてフランス系ヒールのジャック・グレイと組んで活動、10月14日にはジョージア州メイコンのメイコン・コロシアムにてスタン・ハンセン&バズ・ソイヤーと対戦した。1981年は英国人のロード・アルフレッド・ヘイズをマネージャーに、南部エリアでニコライ・ボルコフと反米タッグを結成、ノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションズではジョニー・ウェーバー&デューイ・ロバートソンからNWAミッドアトランティック・タッグ王座を奪取した。 その後は古巣のフロリダを経て、1984年よりAWAに定着し、クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、バロン・フォン・ラシク、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼル、ファビュラス・ワンズ、スティーブ・オルソノスキー、ブラッド・レイガンズ、カート・ヘニング、ジェリー・ブラックウェル、キングコング・バンディなどのジョバーを務めた。1985年には当時のロシア系ヒールの新鋭ボリス・ズーコフのマネージャー兼パートナーとなり、サージェント・スローターやロード・ウォリアーズとも対戦した。 引退後はAWAの本拠地だったミネアポリスに居住し、アパートメント管理業の職に就いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリス・マルコフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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