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クリーブランド(Cleveland)は、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市。エリー湖の南岸、ペンシルベニア州との州境から西へ約100km、州都コロンバスから北東へ約220kmに位置する。人口は396,815人(2010年国勢調査)で、全米で第45位〔Census 2000 PHC-T-5. Ranking Tables for Incorporated Places of 100,000 or More: 1990 and 2000 . ''United States Census, 2000''. United States Census Bureau. 2000年.〕、オハイオ州内ではコロンバスに次ぐ第2の都市である。クリーブランドを中心とするクリーブランド都市圏は人口2,077,240人、また、クリーブランドの南約60kmに位置し、タイヤの町として知られるアクロンや、その南にあり、プロフットボール殿堂で知られるカントンなどを含む広域都市圏は人口3,515,646人(ともに2010年国勢調査)を数える〔。 市は1796年、カヤホガ川がエリー湖に流れ込む河口の近くに創設され、いくつもの運河や鉄道の起点となる立地から工業都市として発展した。かつてはオハイオ州最大、全米でも上位10位以内に入る大都市であったが、1960年代以降、それまで市の経済を支えていた重工業は衰退し、市の地位も低下していった。工業の衰退に伴って、金融、保険、ヘルスケア産業などサービス業を主体とする経済に移行していった。また、変わったところでは、クリーブランドはロックンロールの歴史においても重要な位置を占めている。1951年、クリーブランドのDJ、アラン・フリードはリズム・アンド・ブルースをロックンロールと呼び、若者にロックンロールを流行させた。エリー湖の湖畔にはロックの殿堂が建っている〔Visitor Information . Rock and Roll Hall of Fame.〕。 2010年のフォーブス紙の調査では、クリーブランドは、米国で最も惨めな都市に挙げられている〔米国で最も惨めな都市はクリーブランド=調査 . Reuters. 2010年2月19日.〕。 しかし、こうした評価はここ数年のもので、2005年のエコノミスト紙の調査では、クリーブランドはピッツバーグと並んで、全米で最も住みやすい都市の1つに挙げられている〔Vancouver tops liveability ranking according to a new survey by the Economist Intelligence Uni . Economist. 2005年10月11日.〕。また同年の別の号では、同誌はクリーブランドをアメリカ合衆国本土48州で最もビジネスミーティングに適した都市として挙げた〔Copestake, Jon. "Where business is a pleasure." The Economist. 2005年12月23日.〕。しかしながら、一部の地区における貧困層の集中や教育改善のための資金不足など、クリーブランドは未だに大きな問題に直面している〔Request For Proposals: Finance, Design, Build, Manage, Operate, Maintain, Repair and Upgrade A Citywide Municipal Wireless Broadband Network Infrastructure . pp.17. City of Cleveland Municipal Wireless Network RFP. 2007年4月20日. (PDFファイル)〕。また、治安も大きな問題と化しており、2007年度の「全米危険な街ランキング」では第7位に挙げられるなど、数年で評価が一変している〔http://www.statestats.com/cit07pop.htm#25〕。2013年には10年近く誘拐監禁されていた女性3人が発見されるクリーブランド監禁事件が起こっている。 クリーブランドの住民は「クリーブランダー」とよく呼ばれる。初期においては、クリーブランドは''The Forest City''(森の街)と呼ばれた。20世紀初頭に隆盛を迎えようとしていたとき、市は''Sixth City''(第6の街)と呼ばれた〔Cleveland Court Winner . The New York Times. 1919年8月3日.〕。一方、市が衰退の一途をたどっていた1960年代から1970年代にかけては、''Mistake on the Lake''(湖岸の過ち)と呼ばれた。近年つけられた市の別名には、''Metropolis of the Western Reserve''(西部保留地のメトロポリス)〔Cleveland . Architect Magazine. 2007年1月.〕、''The New American City''(新しいアメリカの街)〔Living in Cleveland . The Lerner Research Institute. 2007年.〕、''America's North Coast''(アメリカの北海岸)〔Wood, Terry. Roll to a Final Four in Rockin' Cleveland . ESPN.com. 2007年3月29日.〕、''C-Town''〔Of Cleveland, by Cleveland, for Cleveland (and the world) . Mountain Xpress. 2007年1月24日.〕などがある。 == 歴史 == クリーブランドは1796年6月22日、現在のオハイオ州北部にあたるコネチカット州の西部保留地の首都として建設された。クリーブランドという地名はコネチカット西部保留地の設置者であるコネチカット土地会社を率いていたモーゼス・クリーブランド将軍(Moses Cleaveland)からつけられた。それゆえ、当時の地名は''Cleaveland''という綴りであった。モーゼス・クリーブランドはパブリック・スクエアを中心とした近代的なダウンタウンの開発計画を見渡すとコネチカットに帰り、その後オハイオに戻ることはなかった。 クリーブランドに最初に入植したのはロレンゾ・カーターであった。カーターはカヤホガ川のほとりに小屋を建てた。クリーブランドは1814年12月23日に正式な村になった。1831年、新聞の見出しに''Cleaveland''が1文字だけ入りきらないため、''a''が抜かれ、地名の綴りが現在の''Cleveland''に変えられた〔Cleveland: A Bicentennial Timeline . The Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University. Cleveland, Ohio, United States.〕。 近隣が湿地性の低地で、冬の寒さが厳しいにもかかわらず、湖岸に位置するクリーブランド一帯は将来有望な土地であった。1832年にオハイオ・エリー運河が完成すると、クリーブランド一帯は急成長を遂げていくようになった。この運河はエリー湖とオハイオ川を結び、エリー湖・オンタリオ湖・セントローレンス川を通ると大西洋へ、またオハイオ川・ミシシッピ川を通るとメキシコ湾へと、クリーブランドから両方の海への出口へとつなぐものであった。鉄道が開通すると、クリーブランドの成長はさらに進んだ〔Ohio and Erie Canal . The Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University. Cleveland, Ohio, United States.〕。クリーブランドは1836年に市に昇格した〔。 1836年、カヤホガ川に橋が架けられ、それまで川の東岸だけが発展していた市が西岸のオハイオシティ方面にも広がっていった〔Columbus Street Bridge . The Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University. Cleveland, Ohio, United States.〕。1854年、それまで1つの独立した市であったオハイオシティはクリーブランドに合併された〔。クリーブランドは船で五大湖上を運ばれてきたミネソタ産の鉄鉱石と鉄道で運ばれてきたアパラチア産の石炭の両方が積み下ろされる地であった。そうした立地条件からクリーブランドでは鉄鋼産業や自動車産業が発達し、工業の中心地として発展していった。また、スタンダード・オイルの創設者ジョン・ロックフェラーは、このクリーブランドで成功し、富を築き上げた。 1920年にはクリーブランドは796,841人の人口を抱え、ニューヨーク(5,620,048人)、シカゴ(2,701,705人)、フィラデルフィア(1,823,779人)、デトロイト(993,678人)に次ぐ全米第5の都市になった〔。この頃、市は全国的に起こっていた革新運動の中心地で、地元では市長トム・L・ジョンソンを筆頭として運動が起こっていた。第20代大統領ジェームズ・ガーフィールドをはじめ、この頃のクリーブランドの多くの著名人は市の東に位置する、歴史的なレイクビュー墓地に埋葬されている〔Lake View Cemetery . ''Find A Grave''. Findagrave.com.〕。1936年と翌1937年の夏には、クリーブランド市制施行100年を記念して、エリー湖畔でグレート・レイクス博覧会が開催された。世界恐慌で大打撃を受けた市をよみがえらせると思われたこの博覧会は1936年の第1シーズンには400万人を、1937年の第2シーズンには700万人を動員した〔Great Lakes Exposition . The Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University. Cleveland, Ohio, United States.〕。会場跡地には、現在ではグレート・レイクス科学センター(1996年開館)やロックの殿堂(1995年開館)などが建ち、バーク・レイクフロント空港にも利用されている〔Porter, Philip. Cleveland: Confused City on a Seesaw . Ch.6. pp.106-107. Ohio State University Press. Columbus, Ohio, United States. 1976年. ISBN 0-8142-0264-0.〕。 第二次世界大戦の終戦直後、クリーブランドはしばしの間ブームになった。スポーツにおいては、クリーブランド・インディアンスが1948年のワールドシリーズで28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いた。1950年代には、クリーブランド・ブラウンズが黄金時代を謳歌していた。実業界においては、クリーブランドは「全米で最も良い地」とされた〔Cleveland Electric Illuminating Co. Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University. Cleveland, Ohio, United States. 1997年6月14日.〕。1949年には、クリーブランドは同年に始まったオール・アメリカ・シティ賞の第1回受賞都市に選ばれた〔Past Winners of the All-America City Award . National Civic League.〕。1950年には市の人口は914,808人でピークに達し、全米でも第7の規模であった。 しかし、1960年代に入ると市は凋落に転じた。市の経済を支えていた重工業は衰退し始め、住民は郊外へと移り住んでいった。全米の多くの主要都市で見られたホワイト・フライトやスプロール現象、人種間の緊張といった現象はクリーブランドでも例外ではなかった。1966年7月にはヒュー地区で暴動が起こり、1968年7月にはグレンビル地区で銃撃戦が起こった。これらの地区はいずれも市の東側に位置し、アフリカ系の住民が多い地域であった。1969年には、カヤホガ川の水面に浮いていた産業廃棄物に引火したことが原因で火事が起こった。財政も逼迫し、デニス・クシニッチが市政を執っていた1978年12月には、全米の主要都市では世界恐慌以来初の債務不履行に陥った〔。こうした公害や財政の悪化、地元スポーツチームの不振を引き合いに出し、メディアはクリーブランドを''The Mistake on the Lake''(湖岸の過ち)と呼ぶようになった〔Schlossberg, Dan. Cleveland - Mistake on the Lake no more . Travel World Magazine.〕。 それ以来、市はその汚名を雪ぐために手を尽くしてきた。近年では官民協働、ダウンタウンの再建、都市再生がメディアにも評価されつつある〔Walljasper, Jay. Town Square. ''Project for Public Spaces''. 2004年11月.〕。ジョージ・ヴォイノヴィッチ、マイケル・ホワイト両市長の下、都市圏の再生が進められ、とりわけダウンタウンの再生は目覚しいものであった。1994年、ダウンタウンにはジェイコブス・フィールドとガンド・アリーナからなるゲートウェイ・コンプレックスが完成した。その財源にはカヤホガ郡の酒税とタバコ税が充てられた。かつては港湾施設で占められていたノース・コースト・ハーバー地区にはロックの殿堂やクリーブランド・ブラウンズ・スタジアム、グレート・レイクス科学センターといった娯楽施設や文化施設が建った。メディアはクリーブランドを''Comeback City''(復活の街)と称えるようになった〔Paynter, Bob and Pledger, Marcia. Comeback City' fights old-shoe image . The Plains Dealer. 2001年10月14日.〕。しかしその一方で、ダウンタウン近隣の住宅街、インナーシティの治安は依然として軒並み悪く、また市内の公立学校システムは重大な問題を抱えたままである。市では、経済成長、若いプロフェッショナル層の確保、ウォーターフロント地区の有効活用による収益向上の3つを優先度の高い事項として挙げている〔Jackson, Frank. State of the City of Cleveland . City of Cleveland, Ohio. 2007年3月1日. (PDFファイル)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリーブランド (オハイオ州)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cleveland 」があります。 スポンサード リンク
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