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クルックドビレットの戦い : ウィキペディア日本語版 | クルックドビレットの戦い[くるっくどびれっとのたたかい]
クルックドビレットの戦い(クルックドビレットのたたかい、)は、アメリカ独立戦争の1778年5月1日、クルックドビレット酒場(現在のペンシルベニア州ハットボロ)近くで起こった戦闘である。イギリス軍ジョン・グレイブス・シムコー少佐の指揮する部隊が、アメリカ側ジョン・レイシー准将のペンシルベニア民兵隊3個連隊を急襲し、文字通り寝ている所を捕まえた。イギリス軍はペンシルベニア民兵隊に重大な損失を与え、レイシーとその部隊は近くのバックス郡までの撤退を強いられた。 == 背景 ==
イギリス軍北アメリカ総司令官ウィリアム・ハウの指揮する軍隊が1776年にニューヨーク市を占領し、1777年にはフィラデルフィア市を占領した。フィラデルフィアに水路補給する手段を妨げていたミフリン砦とマーサー砦を奪取した後でも、イギリス軍の兵士や物資の移動や情報伝達については、ニューヨーク市とフィラデルフィア市の間で陸路に大きく頼っていた。イギリス軍はフィラデルフィア市周辺の田園部に定期的に出撃して糧秣の調達を行ってもいた。 1777年9月から、ジョージ・ワシントン将軍と大陸軍は、フィラデルフィア市の北西にあるバレーフォージで冬季宿営に入っていた。ジョン・レイシーは1778年1月に23歳で准将に昇進し、ペンシルベニア民兵隊の指揮を任されていた。ワシントンからはデラウェア川とスクーカル川の間、フィラデルフィア市の北の地域を偵察するよう任務が与えられていた。ワシントンはレイシーに、農夫たちが品物を持ってフィラデルフィア市に入りイギリス軍(高くしかも金で支払っていた)に売るのを妨げ、また地域の愛国者がイギリス軍やロイヤリストの部隊から嫌がらせを受けないよう守れという命令を与えた〔George Washington to John Lacey, dated January 23, 1778.〕。 ワシントンはペンシルベニア民兵隊の徴兵の仕方やレイシーの行動について非常に批判的だった。ペンシルベニアは、1,000名の民兵でその地域を偵察すると約束したにも拘わらず。それだけの兵士を集めることができていなかったので、ワシントンは周辺の邦からも民兵を集めることを検討していた。ワシントンは、邦が約束した民兵は半分も集まらないこと、またレイシー将軍には現場に70名しか持っていないことを記していた〔George Washington to John Armstrong, dated March 27, 1778.〕。レイシーはイギリス軍の動きを妨害することに関してジェイムズ・ポッター准将ほど効率よくやれなかったので、ワシントンは休暇をとっていたポッターが早く帰ってくることを期待していた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クルックドビレットの戦い」の詳細全文を読む
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