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クレメンス7世(Clemens VII 1478年〔〕5月26日 - 1534年9月25日)は、ローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。 ==略歴== 教皇・レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招く。宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始した。 芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿時代にラファエロを引き立て、1520年に政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆依頼をしている。後には天文学者コペルニクスの研究も支援した。晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼する(ミケランジェロは気が進まず、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス7世死後の1536年から1541年である)。 在世中はイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国との戦闘が続き(イタリア戦争)、マルティン・ルターによる宗教改革運動もあって、不安定な状況であった。1527年、フランス王・フランソワ1世と同盟を結んだ教皇への報復として、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍がローマに侵攻する。クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃れるが、市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられた(サッコ・ディ・ローマ、ローマ略奪)。他の都市へ逃れる市民も多く、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。クレメンス7世が優柔不断だった面もあるが、むしろイタリア戦争、宗教改革、オスマン帝国のヨーロッパへの圧力と、カトリック教会史上最悪の状況であった事から、教皇個人の資質のみを責めるのは酷かもしれない。イタリアとヨーロッパが分裂し、混乱を重ねる時代だったのである。 クレメンス7世はカール5世と和解し、カール5世に皇帝の戴冠を行う。これ以後もイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国の戦闘は続くものの、後者の優位がほぼ確定する。 なお、この間にメディチ家のアレッサンドロ(クレメンス7世の庶子)は教皇の後見のもとでフィレンツェを統治していた。1527年、ローマ略奪の報が伝わると一時追放されるが、1530年にカール5世の支援により復帰、1532年にはフィレンツェ公に叙任され、メディチ家は名実ともにフィレンツェの君主となった。 晩年の1533年には、遠縁のカテリーナ・デ・メディチとフランス王子・アンリ(のちのアンリ2世)の結婚式に出席。離婚問題で紛糾していたイングランド王・ヘンリー8世とは対立を深めたが、その1年後の1534年9月25日に死去。時代の激しい荒波にもまれた「悲劇の教皇」であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クレメンス7世 (ローマ教皇)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pope Clement VII 」があります。 スポンサード リンク
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