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クロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima)は、古代ローマの下水システム。もともとは大都市ローマの問題だった湿地帯から排水するためのもので、すぐそばを流れるテヴェレ川に廃水を運ぶ〔Aldrete, Gregory S. (2004). ''Daily life in the Roman city: Rome, Pompeii and Ostia''. Greenwood Publishing Group. ISBN 9780313331749, pp.34-35.〕。 その名称は「最大の下水」を意味する。伝承によれば、紀元前600年ごろ王政ローマの王タルクィニウス・プリスクスが建設させた〔Waters of Rome Journal - 4 - Hopkins.indd 〕。 この公共事業はエトルリア人技術者を使い、ローマ市民の貧民階級を半ば強制的に労働力として使うことで実現した。 リウィウスはローマの地下にトンネルを掘ったとしているが、彼がそれを書いたのは数世紀後のことである。他の文献やその経路から考えると、もともとは開渠だった可能性が高い。クロアカ・マキシマは付近の3つの丘からの流れを基に形成され、主要なフォルムを通ってテヴェレ川に排水する水路だった〔。都市の建築スペースが貴重になってくるにつれて、開渠の上にも建物が建設され、徐々に暗渠になっていったと考えられる。両方の説が正しい可能性もあり、特に下流部分は最初から地下に建設された可能性が高い。 == 水道の排水口 == 紀元1世紀のローマでは11本のローマ水道が水を供給しており、ディオクレティアヌス浴場やトラヤヌス浴場などの多数の公衆浴場や公共の噴水や宮殿や個人宅に水を供給した後、最終的にそれらの廃水が下水道に流れ込んでいた〔Woods, Michael (2000). ''Ancient medicine: from sorcery to surgery''. Twenty-First Century Books. ISBN 9780822529927, p.81.〕〔Lançon, Bertrand (2000). ''Rome in late antiquity: everyday life and urban change, AD 312-609''. Routledge. ISBN 9780415929752, p.13.〕。現代の水道とは異なり、蛇口を閉めておくと水が流れないという方式ではなかった。そのため水が常に流れ続けることで、下水が詰まることを防いでいた。水質の最もよい水は飲用に確保され、次によい水質の水は風呂で使われ、その廃水が市内の通りの下にある下水網に排水される。紀元1世紀末ごろ、セクストゥス・ユリウス・フロンティヌスが水道システムの調査を行い、水道の現状についての報告書を直接皇帝ネルウァに提出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クロアカ・マキシマ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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