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クロアチア民主同盟(クロアチアみんしゅどうめい、クロアチア語: )は、クロアチアの中道右派政党である。キリスト教民主主義を党是とし、1990年から2000年まで、および2003年以降、クロアチアの政権を主導する立場にある。欧州人民党の協力政党となっている。 == 歴史 == === 興り === クロアチア民主同盟は、当時ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の統治下で、フラニョ・トゥジマンを中心とするクロアチア民族主義を志向する反体制派によって結成された。トゥジマンは第二次世界大戦のパルチザンであったが、終戦後まもなく民族主義に転向した人物であり、クロアチア独立国の肯定やウスタシャによるセルビア人虐殺を否定する歴史修正主義者であり、クロアチアの連邦離脱を主張し逮捕された経歴がある〔佐原(2008) pp.117-118〕。党が結成されたとき、クロアチアでは多党制は試行途上にあり、クロアチア民族主義を公然と掲げることは無謀であった。クロアチア民主同盟は地下活動的な形で結成され、その最初の事務所はザグレブのとある小屋の中に置かれた。そのため、党の結成者たちは誇りを持って、自らをバラカシ()、つまりバラカ(、小屋)の者たちと呼んでいる。 このように密かに誕生したクロアチア民主同盟は、しかしその後共産主義体制が崩壊するに従って急速に勢力を拡大するようになった。トゥジマンやその他の党幹部らは外国を訪ね、在外クロアチア人から多額の資金を集め、またこれを通じてより民族主義的な党基盤が形作られていった。 1990年の総選挙では、与党のクロアチア共産党(Croatian Communist Party)は、クロアチア民主同盟の民族主義的性向は、自党に有利に働くだろうと予想していた。投票は2大政党に有利な制度となっており、共産党から改称されたクロアチア社会民主党(Social Democratic Party of Croatia)は、「危険思想の党」とされるクロアチア民主同盟と比べると「より小さな悪」としてクロアチア国民から選ばれるだろうと考えていた。しかしこの予想ははずれ、クロアチア国民の大多数がクロアチア民主同盟に票を投じた。クロアチア国民は、クロアチア民族主義や、共産主義・ユーゴスラビアからの脱却のためだけでなく、彼らの考える、スロボダン・ミロシェヴィッチらによるセルビア民族主義の勃興への対抗の意味もこめられていた。クロアチア民主同盟はクロアチア議会で多数派を形成し、クロアチアは共産主義の一党支配から反共主義の一党支配に転じた数少ない国であった。1990年5月30日、クロアチア民主同盟が公式に政権を発足させた日は、後に「国家の日」とされ、クロアチアの公式の祝日となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クロアチア民主同盟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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