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クロウフォード遠征 : ウィキペディア日本語版
クロウフォード遠征[くろうふぉーどえんせい]

クロウフォード遠征(クロウフォードえんせい、、またはサンダスキー遠征、、クロウフォードの敗北、)は、アメリカ独立戦争中の1782年、この戦争の最後期のものとして西部戦線で展開された作戦行動である。この遠征は戦中にアメリカ側軍隊と、敵対するインディアンおよびイギリス軍の双方が敢行した敵の集落に対する一連の襲撃の一つだった〔For a brief overview of raids and counter-raids on the Western front, see Grenier, ''First Way of War'', 146–62.〕。ウィリアム・クロウフォード大佐が率いたこの作戦は、オハイオ領土のサンダスキー川沿いにある敵側インディアンの集落を破壊し、アメリカ人開拓者に対するインディアンの攻撃を終わらせようとしたものだった。
クロウフォードは大半がペンシルベニア出身の志願民兵約500名を率い、インディアンの領土深く侵攻し、インディアンを急襲する意図があった。デトロイトを本拠にしていたイギリス軍とその同盟インディアンは、アメリカ側の動きを察知し、対抗する勢力を集めた。サンダスキーの町近くで1日の戦闘が行われても決着が付かなかった後、アメリカ軍は自隊が取り囲まれているのが分かり、撤退を始めた。その撤退は潰走に変わったが、兵士の大半はペンシルベニアまで何とか戻ることができた。約70名のアメリカ兵が殺され、イギリス軍とインディアンの損失は少なかった。
この退却中、クロウフォード大佐とその部下の兵士不特多数が捕まった。インディアンはグナーデンヒュッテンの虐殺に対する報復としてこれら捕虜の多くを処刑した。グナーデンヒュッテンの虐殺とはその年早くに起こっていた事件であり、ペンシルベニア民兵によって罪もないインディアン約100人が殺されたものだった。クロウフォードの処刑は特に残酷なものとなった。少なくとも2時間は拷問された後、火炙りに処された。その処刑はアメリカ合衆国の中で広く報道され、既に歪が来ていたインディアンとヨーロッパ系アメリカ人の関係をさらに悪化させた。
== 背景 ==
1775年にアメリカ独立戦争が始まると、オハイオ川がアメリカ植民地とオハイオ領土のインディアンとの不安定な境界になった。オハイオのインディアン、すなわちショーニー族、ミンゴ族、デラウェア族およびワイアンドット族はこの戦争にどう対応するかで態度が分かれた。インディアン指導者の中には中立を勧める者がおれば、アメリカ植民地の拡張を止める機会として、また植民地のために失っていた土地を取り戻す機会として捉えて戦争に参入する者もいた〔Downes, ''Council Fires'', 191–93, 197–98.〕。
1777年にデトロイトにいたイギリスの役人がインディアン戦士を徴兵して武装させ、フロンティアにあるアメリカ人開拓地を襲わせた後に、境界部の戦争が拡大した〔Downes, ''Council Fires'', 195.〕。現在のケンタッキー州ウェストバージニア州およびペンシルベニア州に行われたこれら襲撃によって不特定多数のアメリカ人開拓者が殺された。1777年11月、怒りが募っていたアメリカ人民兵隊が、ショーニー族の中立を主導していた指導者のコーンズトークを殺害した後、その緊張関係が高まった。オハイオのインディアンは、その暴力沙汰にも拘わらず、戦争の局外に留まることを期待していたが、その領土がデトロイトのイギリス軍とオハイオ川に沿ったアメリカ開拓地のまさに中間にあったので、中立は難しかった。
1778年2月、アメリカ側はオハイオ領土のイギリス軍の動きを無効化するために、最初の遠征隊を送った。エドワード・ハンド将軍はピット砦から500名のペンシルベニア民兵を率い、イギリス軍がインディアンの襲撃隊に配分する軍需物資を保管していたカユホガ川方面に向けて、当時は稀だった冬季の行軍を行った。しかし、悪天候のためにこの遠征隊は標的まで辿り着けなかった。その行軍の帰路、ハンドの部下の幾らかが刃向かっていないデラウェア族インディアンの集落を襲い、男性1人と数人の婦女子を殺害した。この中にはデラウェア族の酋長キャプテン・パイプの縁戚が含まれていた。非戦闘員だけを殺したので、この遠征隊は「女々しい攻撃隊」と嘲笑されるようになった〔Downes, ''Council Fires'', 211; Butterfield, ''History of the Girtys'', 47–48; Sosin, ''Revolutionary Frontier'', 111.〕。
キャプテン・パイプはその家族が攻撃されたにも拘わらず、報復を求めないと語った〔Hurt, ''Ohio Frontier'', 69.〕。その代わりに1778年9月にはデラウェア族とアメリカ合衆国の間に結ばれたピット砦条約の提唱者の一人になった。アメリカ側はデラウェア族とのこの合意により、アメリカ兵がデラウェア族の領土を通り過ぎてデトロイトを攻撃できると期待したが、先の条約の交渉相手であったデラウェア族の酋長ホワイトアイズが死んだ後に、その同盟は破綻をきたした。キャプテンパイプが突然アメリカ植民地人との同盟を捨て、その追随者を西のサンダスキー川に移動させ、そこでデトロイトのイギリス軍からの支援を受け始めた〔Calloway, "Captain Pipe", 369. Calloway argues that while Captain Pipe has often been characterized by writers as being "pro-British" early in the war, Pipe was actually an advocate of Delaware neutrality until about 1779.〕。
その後の数年間、アメリカ側とインディアンは開拓地を標的として互いに襲撃を繰り返した。1780年、何百人ものケンタッキー入植者が、イギリス・インディアン連合によるケンタッキー遠征で殺され捕虜にされた〔Grenier, ''First Way of War'', 159. Grenier argues that "The slaughter the Indians and rangers perpetrated was unprecedented."〕。1780年8月、これに反応したジョージ・ロジャース・クラーク率いる遠征隊が、マッド川沿いの2つのショーニー族集落を破壊したが、戦況を変えるまでには至らなかった〔Nelson, ''Man of Distinction'', 118.〕。その後クラークはデトロイト遠征のための兵士を募集したが、オハイオ川沿いで100名の志願兵分遣隊がインディアンに急襲されて壊滅し(ラフリーの敗北)、その作戦を中止せざるを得なくなった。この時点までにデラウェア族の大半はイギリス側に付いたので、アメリカ軍のダニエル・ブロードヘッド大佐が1781年4月にオハイオ領土への遠征隊を率い、デラウェア族の町であるコショクトンを破壊した。デラウェア族の大半はサンダスキー川の好戦的な町に逃げた〔Dowd, ''Spirited Resistance'', 82–83.〕。
サンダスキー川沿いにある好戦的集落とアメリカ植民地軍のピット砦の間には、幾つかのキリスト教徒デラウェア族の村があった。これらの村はモラビア派宣教師デイビッド・ツァイスバーガーとジョン・ヘッケウェルダーによって治められていた。宣教師達は非戦闘員ではあったが、アメリカ植民地側の考え方に好意的であり、敵対するイギリス軍やインディアンの行動に関する情報をピット砦の指導部に教えていた。この情報漏えいを阻止するために、1781年9月、サンダスキーの敵対的ワイアンドット族やデラウェア族がキリスト教徒デラウェア族と宣教師達を強制的にサンダスキー川の新しい村(捕虜収容所)に移住させた〔Nelson, ''Man of Distinction'', 121–22; Olmstead, ''Blackcoats among the Delaware'', 37–39.〕。
1782年3月、デイビッド・ウィリアムソン中佐指揮下の160名のペンシルベニア民兵がオハイオ地方に入り、ペンシルベニア開拓者達を襲い続けているインディアンの戦士を見つけようとした。インディアンによる白人女性やその赤ん坊の陰惨な殺戮〔Belue, "Crawford's Sandusky Expedition", 417.〕に怒りを覚えていたウィリアムソンの部隊は、グナーデンヒュッテンの村で約100人のキリスト教徒デラウェア族を拘束した。そのキリスト教徒デラウェア族(大半は女性と子供)は捕虜収容所からグナーデンヒュッテンに戻り、残していた穀物の収穫を行おうとしていた。ペンシルベニア民兵はキリスト教徒デラウェア族が開拓者達を襲い続けているインディアンを助けていたとして、ほとんど婦女子ばかり100名をハンマーで頭を割って殺してしまった〔Weslager, ''Delaware Indians'', 316.〕。このグナーデンヒュッテンの虐殺と呼ばれるようになった事件は、その後にアメリカ軍がオハイオ地方に遠征を行ったときに重大な余波を生むことになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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