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クーチ橋の戦い : ウィキペディア日本語版
クーチ橋の戦い[くーちきょうのたたかい]

クーチ橋の戦い(、またはアイアンヒルの戦い、〔Heitman, p. 332〕)は、アメリカ独立戦争中の1777年9月3日に、アメリカ側民兵隊と、イギリス軍に従軍していた主にドイツ人傭兵部隊との間に行われた小戦闘である。これはアメリカ独立戦争中の現在のデラウェア州で戦われた唯一の戦闘であり、フィラデルフィア方面作戦の中で最も重要な戦いであるブランディワインの戦いの1週間前に起こった。
ウィリアム・ハウ将軍が全体を指揮するイギリスとドイツの連合軍は8月25日にメリーランドに上陸した後、大陸会議が置かれていたフィラデルフィアを占領するために北に動き始めた。その動きをデラウェアニューアークに近いクーチ橋を本拠地にしていた大陸軍の軽歩兵部隊と民兵隊が監視していた。9月3日、イギリス軍の前衛を務めていたドイツ兵部隊がクーチ橋に向かう道路の両側にある森の中から大陸軍軽歩兵の銃撃を受けた。ドイツ兵部隊は援軍を求めながら、大陸軍を追いたて、橋の向こうまで追い返した。
== 背景 ==

イギリス軍は1776年にニューヨーク市を占領することに成功した後、アメリカ13植民地を分断し、アメリカの反乱を決定的に終わらせることを期待して、2つの遠征部隊を組織した。1つの遠征部隊は遠くケベックから南に下ってハドソン川の支配を目指し、もう1つの遠征部隊は13植民地の首都とみなされるフィラデルフィアを標的にしていた〔Clement, pp. 8–9, 28–30〕。フィラデルフィアを目指したウィリアム・ハウ中将は約18,000名(および約5,000名の支援部隊)を1777年7月下旬に輸送船に乗せ、ニューヨーク市からチェサピーク湾に向かった〔McGuire, p. 71〕〔Clement, p. 33〕。ジョージ・ワシントン将軍の大陸軍は、ハウの標的が南にあることがはっきりするまでニューヨーク市近くに留まっていた。ハウ軍がチェサピーク湾からフィラデルフィアに向けて移動していることがはっきりすると、ワシントンは8月下旬に約16,000名の軍隊を移動させ、フィラデルフィアを抜けてデラウェアのウィルミントンに宿営地を設営した〔Martin, pp. 31–36〕。ワシントンは8月26日に南と西の偵察を行い、イギリス軍が上陸したことを知った〔。
8月25日、ハウ軍はヘッド・オブ・エルクと呼ばれる小さな町(現在のエルクトン)の下流で船を降りた。そこはフィラデルフィから南に約50マイル (80 km)、メリーランドのエルク川の航行可能な最上流点だった〔Ward, p. 332,336〕。上陸点はあまり望ましい地形ではなかったので、ハウ軍は即座に北に動き、8月28日にヘッド・オブ・エルクそのものに到着した。イギリス軍軽歩兵とドイツ人猟兵で構成される前衛部隊はエルク川を渉って東に動き、アイアンヒルの西約1マイル (1.6 km) にあるグレイヒルを占領した。そこはニューアークの南数マイルにあるクーチ橋に近かった〔McGuire, p. 143〕。この橋はその家が近くにある地元の土地所有者トマス・クーチに因んで名付けられていた〔Cooch, p. 119〕。
ワシントンはダニエル・モーガンとそのライフル銃部隊に前衛任務を宛てるのが通常だったが、このときは北から進行してきているジョン・バーゴインのイギリス軍に対抗してハドソン川を守るホレイショ・ゲイツ軍を支援させるためにモーガン隊を派遣していた〔McGuire, p. 120〕。ワシントンは大陸軍の連隊の中から選別した700名と、ペンシルベニアおよびデラウェアの民兵約1,000名からなる軽歩兵部隊を組織し、ウィリアム・マクスウェル准将の指揮下に置いた。この部隊がアイアンヒルとクーチ橋を占領し、マクスウェルはイギリス軍の動きを監視するために偵察隊を送り出した〔McGuire, p. 144〕。マクスウェル隊の兵士はクーチ橋から南のエイケン酒場(現在のデラウェア州グラスゴー)に通じる道路の両側で待ち伏せできるよう一連の小さな宿営地を張った〔Reed, p. 93〕。8月28日、ワシントンはアイアンヒルに居り、一方ハウはグレイヒルにあって、敵軍の配置を評価しながら互いを観察しあった。ドイツ人将軍の一人は「あちらの紳士達は双眼鏡で注意深く我々を観察し、我々も彼らを観察した。ワシントンを良く知っている我が軍の士官が無地の上着を着た男がワシントンだと言った」と記していた〔McGuire, p. 143〕。
9月2日、ハウ軍の右翼、ドイツ人ヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍の指揮する部隊がメリーランドのセシル郡庁舎を出発して北に向かい、雨と悪路に悩まされていた〔Reed, p. 99〕。翌朝早く、ハウ軍の左翼、チャールズ・コーンウォリス将軍の指揮する部隊が先頭でヘッド・オブ・エルクを出発し、そこから約5マイル (8 km) 東のエイケン酒場でクニプハウゼンの師団と合流することを目指した。コーンウォリス隊が先に酒場に到着し、これに同行していたハウはクニプハウゼン隊を待たずに北へ押し出すことに決めた〔Martin, p. 43〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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