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クーノ・グラフ(伯爵)・フォン・ヴェスタープ(Kuno Graf von Westarp、1864年8月12日 - 1945年7月30日)は、ドイツ帝国末期からヴァイマール共和国期のドイツの保守・右派政治家。ドイツ保守党(DKP)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ保守人民党(KVP)の党首を務めた。 == 略歴 == プロイセン王国貴族ヴィクトール・フォン・ヴェスタープ伯爵の息子としてポーゼンのルドム(Ludom)に生まれる。ポツダムのギムナジウムを卒業した後、テュービンゲン大学、ブレスラウ大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で学び、司法試験に合格する。プロイセン王国の行政官となり、プロイセン王国の各地で知事などを務めた。 1908年12月、帝国議会(ライヒスターク)議員に当選。ドイツ保守党(Deutsche Konservative Partei、略称DKP)に所属し、1913年11月から1918年にかけて同党の党首を務めた。帝政時代から保守的な人物でドイツ帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークを「リベラル」とみなして毛嫌いしていた。 第一次世界大戦敗戦後の1918年にドイツ保守党は自由保守党(Freikonservative Partei、略称FKP)や国民自由党(Nationalliberale Partei、略称NLP)などと合流してドイツ国家人民党となり、ヴェスタープも同党に所属することとなった。さらに1924年から1928年にかけては同党の党首に就任した。彼はドイツ皇室に深く心酔しており、ヴァイマル共和政になってからは皇室の復興を常に願っていた。そのため彼の後任として新たに国家人民党の党首となったアルフレート・フーゲンベルクが皇室復興の意思がないことを明言するとただちに皇室復活を目指す同志達を引き連れて離党し、ドイツ保守人民党(Konservative Volkspartei、略称KVP)を新たに旗揚げした。しかしまもなくナチス党一党独裁体制となり、ヴェスタープは政治から身を引くことを迫られた。 ナチ政権下では国家文学院(:de:Reichsschrifttumskammer)のメンバーをしていた。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際には家宅捜索を受けたが、逮捕や処刑はされなかった。第二次世界大戦の敗戦後の1945年6月にソ連軍により逮捕され、翌月にベルリンで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クーノ・フォン・ヴェスタープ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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