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グアムの戦い : ウィキペディア日本語版
グアムの戦い[ぐあむのたたかい]

1944年のグアムの戦い(グアムのたたかい、Battle of Guam)は、太平洋戦争大東亜戦争)におけるマリアナ-パラオ戦役の戦いの一つ。サイパンの戦いに次ぐ死傷者を出した。
グアム島マリアナ諸島中ので、大戦開始前にはアメリカの統治下にあったが1941年12月10日日本軍の攻撃によって奪われていた。
昭和18年2月にガダルカナルの戦いで日本軍を打ち破り、中部太平洋の日本勢力圏に圧力を強めるアメリカ軍を食い止める為、日本は1943年(昭和18年)9月30日の最高戦争指導会議で裁可された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「確保スヘキ要域」として絶対国防圏を定めたが、アメリカ軍は、ギルバート・マーシャル諸島の戦いで中部太平洋の日本勢力下の各島を飛び石作戦で攻略し、じりじりと日本本土に迫ってきていた。
その為、サイパン・グアム・テニアンのマリアナ諸島が絶対国防圏の最前線として注目されることとなり、日本軍は戦力増強を急いだ。
最重要拠点は戦前から日本の委任統治領で、多くの邦人が暮らし、中部太平洋を管轄していた第31軍司令部が置かれたサイパン島であったが、グアム島もそれに次ぐ重要拠点として戦力強化が図られた。(詳細は#日本軍の戦略を参照)
アメリカ軍にとってもマリアナ諸島は開発が進んでいた戦略爆撃機B-29の理想的な基地になり得ること、また将来的に台湾・沖縄を攻略し、中国大陸や日本本土に侵攻する為の前進基地にもなることなどで戦略的な価値が極めて高く重点目標とされていた。
太平洋方面のアメリカ軍総司令官の太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツは、マリアナ諸島攻略の為に、高速空母艦隊を中心とした大艦隊と、海兵隊を主力とした水陸両用軍団の大部隊を空前の規模で遠征させてきた。
日本軍も再建した機動部隊第一機動艦隊や基地航空隊等の戦力で迎撃したが、マリアナ沖海戦の敗北により、アメリカ軍のマリアナ諸島への上陸を阻止することができずに、サイパンに続き、グアムとテニアンにもアメリカ軍が上陸し守備隊との間で激しい戦闘が繰り広げられる事となった。
== 両軍の戦略 ==

=== 日本軍の戦略 ===

日本軍は開戦間もなくグアム島を陸海軍共同作戦で攻略した。攻略後にグアム島を日本名大宮島と名づけ、グアム島攻略時の海軍陸戦隊隊長であった林弘中佐を司令として、第5根拠地隊の隷下に第54警備隊を編成した。第54警備隊はアガナ(日本名 明石)市に司令部を設置し、グアムの防衛と警備を担うこととなった。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』514頁〕
だが、昭和18年後期頃より中部太平洋方面での戦局が緊迫の度を増すに連れて、グアム島を含むマリアナ諸島が絶対国防圏の一角として戦略的な価値が増大し、グアム島も海軍の警備隊だけでは戦力不足である為、マリアナ防衛線の重要な拠点として戦力の強化が図られることになった〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』514頁〕
昭和19年1月にグアム島防衛強化の為に、満洲の第29師団高品彪師団長)がグアムに派遣されることとなり、3月にグアムに到着した。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』518頁〕
しかし第29師団の歩兵第18連隊と師団直轄部隊の一部が乗船した輸送船の崎戸丸が、沖大東島南方200kmでアメリカの潜水艦トラウトの雷撃で撃沈された。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』518頁〕トラウトはその後に護衛の駆逐艦朝霜に撃沈された。
歩兵第18連隊は連隊長を含む1,657名が海没し〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』602頁、但し資料に寄って人数は異なり、全国グアム戦友会によれば2,475名が戦死もしくは行方不明〕壊滅状態に陥ったため、一旦サイパン島に上陸し、再編成後にグアムに配置された。
その後も、独立混成第48旅団(重松潔旅団長)、独立混成第10連隊(片岡一郎連隊長)、戦車第9連隊の第一、第二中隊、その他野戦高射砲大隊や海軍部隊など順次増強が行われた。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』535頁〕
独立混成第48旅団と独立混成第10連隊は第29師団同様に関東軍からの転用であったが、いずれも精鋭師団である第1師団第11師団から抽出された部隊で編成されており、北満国境の虎林・孫呉の最前線に駐屯していた最精鋭部隊であった。〔『グアム玉砕の記録 慟哭の孤島』吉田重紀(著)廣済堂出版 96頁〕
日本軍の戦略は、昭和18年10月に大本営より対上陸戦闘の指針とされた「島嶼守備隊戦闘教令」にて示された「洋上撃破・水際撃滅」が根本思想であり、グアムの防衛もその根本思想に沿って計画された。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』540頁〕
第31軍の作戦方針の主なものは以下の通りであった。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』540頁〕
* 事前の艦砲射撃・空爆に対しては我が配備や企画の秘匿に務め、この間守備隊は陣地や兵力の温存・補修に務める
* 水際の第一線陣地は海岸付近の堅固な地形を利用し陣地を構築し、敵の上陸部隊に対しては、主兵力を上陸用舟艇に指向し、水中・水際障害物と陸岸の間で撃滅する
* 砲兵・重火器は、水上と水際での火力発揚を主眼として、その主火力をハガニア湾(日本名 明石湾)に向ける。大口径の海岸砲台は沖合の輸送船や大型上陸用舟艇を射撃できる様に海岸台上の砲座に配置する
* 攻撃部隊が上陸してきたら、海岸線と背後の山地帯に構築した逆襲陣地を利用して、機を見て反撃に転じ水際撃滅を図る
* 戦車は明石湾方面への反撃戦力とする
* 陸軍部隊は第一線部隊とし、海軍諸部隊(陸戦隊を除く)は状況により予備隊として運用する。
グアム島の海岸は断崖が多く、大部隊が上陸できる海岸は限られており、日本軍はアメリカ軍の上陸地点をアデラップ岬(日本軍呼称 見晴岬)以東ハガニア湾(明石湾)を中心としたアガット湾(昭和湾)正面と予想して部隊配置し陣地構築を行った。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』540頁〕
それで、第31軍の作戦方針に沿った陣地の構築要領として、第29師団司令部より以下が徹底された。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』541頁〕
* 第一次に構築すべき野戦陣地は敵の上陸企画を水際で一挙に敵を撃滅できる様にし、一部上陸されたら直ちに水面にて反撃し殲滅できる編成
* 敵の艦砲射撃に中核陣地を破壊されないような編成
* 多数の予備陣地及び偽陣地を構築し、上空や海上から遮蔽する
以上の様に、「洋上撃破・水際撃滅」を基本とした、作戦と陣地構築であったが、ソロモン諸島の戦いギルバート・マーシャル諸島の戦いの戦訓を検証し、艦砲射撃や空爆に対する対策も指示されている。
しかし、マリアナ諸島でのアメリカ軍の艦砲射撃や空爆は、日本軍の想定以上に強化されていた為、以前の戦訓による対策では全く不十分であることを後日痛感させられる事となった。
陣地構築は、資材(特にセメント)の不足により、なかなか進まなかったが、自然の洞窟も活用して、全島で300箇所の機関銃座、セメントの代わりに石灰岩や木材も使った砲掩体も70箇所完成させた。また上陸障害物として椰子の木と鉄線や金網を利用した障害物や、対人用障害物の鹿砦や対舟艇用の拒馬など700個を海岸線に設置した。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』540頁〕
また、第29師団司令部はグアム進駐と同時に在留邦人の内地帰還を企画し、邦人らの意向を確認したところ、アメリカ統治下より居住していた邦人以外は内地への帰還を希望した為、婦女子から優先して、内地行きの輸送船に50名ずつ乗船させたが、2回目が終わったところでアメリカ軍の潜水艦の跳梁により送還不可能となり、150名(男100名 女50名)がグアム島に残され、戦闘に巻き込まれる事となった。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』534頁〕
航空戦力の整備については、グアムにはアメリカ統治中に飛行場はなかった為に占領後に海軍により設営が開始され、昭和19年2月にグアム第一飛行場が完成した。また「あ」号作戦に伴うマリアナでの航空戦力増強策の一環として、第2飛行場も間もなく着工され4月には完成している。〔『戦史叢書 マリアナ沖海戦』415頁 454頁〕更に第4飛行場まで計画されていたが完成しなかった。〔『グアム玉砕の記録 慟哭の孤島』吉田重紀(著)廣済堂出版 グアム島概要図〕
航空戦力の配備も進み、昭和19年6月には、61航戦 263空 零戦4機 521空 銀河40機 22航戦 202空 零戦8機 755空 一式陸上攻撃機12機がグアムに配備された。〔『戦史叢書 マリアナ沖海戦』418頁〕
サイパン島上陸に先立ち、アメリカ軍の機動部隊の艦載機が、マリアナ各島の航空基地を爆撃、グアムにも6月11日に延べ139機が来襲し、521空の銀河はトラック島やフィリピンに分散され14〜15機しか残っていなかった為、この日でほぼ全機撃破された。一方で基地航空隊の迎撃で7機を撃墜するも零戦4機を失った。〔『戦史叢書 マリアナ沖海戦』529頁〕
残った755空の陸航隊も、機動部隊に対し3度に渡って出撃し雷撃を仕掛けるも戦果なく壊滅、零戦も12日の空襲への迎撃で14機中13機が未帰還となり、グアムの航空戦力は、アメリカ軍の上陸を待たずに全滅した。〔『戦史叢書 マリアナ沖海戦』533頁〕
やがてアメリカ軍がサイパン島に上陸してきたが、その際中部太平洋を管轄していた第31軍司令官小畑英良中将パラオへ出張中で、サイパン島へ帰ることができず、やむなくグアムに上陸し指揮をとっていた。
サイパン島の玉砕により第31軍司令部が壊滅すると、第31軍司令部はグアムで再編成され、サイパンで戦死した井桁敬治参謀長の後任として、中部太平洋方面艦隊参謀副長として海軍との調整役に当たっていた田村義冨少将が任命された。
その後グアムに対する上陸作戦がアメリカ軍の諸事情により、サイパン島上陸から1ヶ月以上ずれ込んだため、サイパンの戦いで水際撃滅で海岸線に配置していた部隊や陣地が、アメリカ軍の激しい艦砲射撃で大きな損害を被った事がグアム守備隊にも伝わり、日本軍は海岸陣地に偽陣地を多数設置しアメリカ軍を欺瞞する事や、歩兵の砲爆撃による損害を減らすため、歩兵陣地を縦深配置とするなどの陣地改良を行う事ができ、上陸前日までの砲爆撃による人的損害を100名以下に抑えることに成功している。〔『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』552頁〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「グアムの戦い」の詳細全文を読む



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