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グラッタンの虐殺(Grattan massacre)は、1854年8月17日に、ネブラスカ準州ララミー砦(現在のワイオミング州ゴーセン郡)のそばで、アメリカ陸軍とラコタ・スー族インディアンとの間で、牛一頭の賠償を巡って起こった軍絡みの紛争。 事件の責任者であるアメリカ軍人ジョン・ローレンス・グラッタンの名を採ってこう呼ばれている。 「虐殺(massacre)」と名はついているが、実情は武装した米兵がインディアンの村に押しかけて、無理難題を要求したあげくに武力行使し、自業自得の返り討ちにあって全滅してしまったというものである。大平原地帯における「インディアン戦争」の最初期の事例とされる。 ==発端== 膨張する一方のアメリカ合衆国の植民は、19世紀に入って西部大平原地帯にも蚕食してきた。この一帯は、スー族をはじめとする、略奪狩猟騎馬民族である「平原インディアン」たちの領土だった。合衆国は1833年にネブラスカ準州にを開き、陸軍を常駐させ、1851年の「ララミー砦条約」以降、スー族に保留地への定住を強制し始めていた。西へと向かう多くの白人移民の幌馬車団は近くの「オレゴン道」を通過したが、若いスーの戦士たちは領土に侵入した彼らから牛や馬をかっさらって、白人移民たちを悩ませていた〔『Bury My Heart at Wounded Knee』(ディー・ブラウン著、バンタムブックス)〕。 1854年の初夏、スー族各支族は1851年にで約束された保留地年金を受け取るため、ララミー砦そばに集まっていた〔『THE INDIANS』(ベンジャミン・キャップス著、タイムライフ社)〕。砦のそばに5000人近いスー族が大集結していたのである。 地元ネブラスカの作家マリ・サンドスは当時を知るスー族の古老や関係者から聞き取り取材を行い、事件についての証言をまとめている。スー族によると、事件のあらましは以下のようなものであった〔『Crazy Horse, the Strange Man of the Oglala』(マリ・サンドス著、MJF Books)〕。 スー族はララミー砦近くで「太陽の踊り(サンダンスの儀式)」を行い、この儀式のために、カーリー(後のクレイジー・ホース)、ハンプ、リトル・ホーク、ローン・ベアーら錚々たる戦士たちや、コンクァーリング・ベアーやオールド・マン・アフレイド・オブ・ヒズ・ホーシズ〔当時最もスー族で尊敬を集めた酋長。本当の名前は「彼の馬のいななきを聞いただけで誰しも怖れをなす」という勇敢なものだが、白人が誤ってこの「彼の馬に恐れをなす男」という情けない訳名をつけてしまった〕といった酋長も顔を合わせていた。 8月に、ララミー砦からほど近い、シチャング・スー族(ブルーレ族)とオグララ・スー族の共同野営地に、モルモン教徒の一団がやって来た。そのうちの一人が、片脚を痛めた雌牛〔一説によると去勢牛〕を棒で激しく叩いたところ、牛は暴走し、スー族の野営に飛び込んでトラヴォイ(地引き橇)や干した生皮を壊した。牛はちょうどこの野営を訪れていた、ハイ・フォアヘッド(高い額)、またはストレート・フォアトップ(まっすぐな前髪)という名のミネコンジュー・スー族の戦士のティーピーを壊してしまった。ハイ・フォアヘッドは牛の角を掴んでこれを押さえ、追いかけてきたモルモン教徒に取りに来るよう手を振り、大きな声で叫んだ。しかしモルモン教徒は逃げて行ってしまった。牛は年取っていて脚を怪我しており、何の価値もなかったので、ハイ・フォアヘッドは牛を彼のティーピーを壊した代償だと思い、みんなで食べてしまった。 その晩、コンクァーリング・ベアー酋長とオールド・マン・アフレイド・オブ・ヒズ・ホーシズ酋長は、聖なるパイプの儀式を行い、二人でこの問題を協議した〔インディアンは、物事に取り掛かる前に、必ず聖なるパイプを回し飲みする〕。彼らは「朝になったら砦に行って、兵隊の酋長に会おう。」と話しあった。しかし、彼らが砦に行く前に、事態は急展開していた。モルモン教徒の飼い主は、これをララミー砦の米軍に苦情として持ち込んでいた。米軍の若い指揮官は、スー族を従わせるのにちょうどよいと、この訴えを採り上げた。 砦の近くには、スー族の妻を持ち、永年スー族と交流のあったルイ・ボルドーというフランス人交易業者がいた。彼はもめごとを避けるためにその朝、砦でグラッタンと話をし、モルモン教徒に死んだ牛を10ドルで買おうと申し出た。しかし、家畜としてはすでに役に立たなかった老牛の代償金として、モルモン教徒は当時では高額の25ドルを要求した。 ボルドーはとてもそんな金は払えないと断り、引き下がった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グラッタンの虐殺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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