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グレート・ジンバブエ遺跡(Great Zimbabwe)は、ジンバブエ共和国の首都ハラレから南方300kmのジンバブエ高原の南端、サビ川の上流の標高約1000mに位置する大規模な石造建築遺跡の名称である。ジンバブエとは、ショナ語で、首長、王の宮廷の意味を含んだ「石の家」という一般語であるため、特定して最も大規模で著名なこの遺跡を指すときは、語頭に「グレート」を付けるのが慣例となっている。 最近の研究の進展にともない遺跡を築いたと想定されるショナ族の国家の通名として「グレート・ジンバブエ」の名称を用いるようになってきた。推定面積は、周囲の集落を含めると東西1.5km、南北1.5kmの約2km²に及ぶと考えられる。 遺跡の中心部にある石造建築物群は、50世帯近くに及ぶジンバブエの王ないし首長の一族のために築かれたもので、直方体の花崗岩のブロックを積み上げた円ないし楕円形の建物の組み合わせであって、個々にエンクロージャー(囲壁)と呼ばれている。石造建築エンクロージャー群は、おおきく三つに分けられ、北側に通称「アクロポリス」、又は「丘上廃墟」と呼ばれる建造物群、その南方に広がる「谷の遺跡」、そして最も有名な「大囲壁」(グレートエンクロージャー)に分けられる。1986年に下記の登録基準を満たす世界遺産として登録された。 == 研究史 == === オフィール伝説と初期のずさんな調査 === 1860年代にはグレート・ジンバブエ遺跡の起源について全く誤った仮説が立てられていた。南アフリカのトランスヴァールで活動していたドイツ人宣教師A.メレンスキーなどは、ショナ族居住地にあるという巨大な遺跡についてソロモン王を訪ねた「シバの女王国」の首都オフィールに違いないと考え、同国人の若い探険家カール・マウフにそのことを伝えた。マウフは、1871年、現地を訪れて、グレート・ジンバブエ遺跡を発見し、「アクロポリス」をモリヤ山上、すなわち現エルサレムのソロモン神殿を模倣したもので、グレートエンクロージャーは、シバの女王がエルサレムにいたときに住んでいた宮殿を模したものだと報告した。その根拠として、遺跡で採集した木材片にレバノン杉の匂いがあるので、古代フェニキア人かユダヤ人がこの遺跡を築いたのだ、と主張した。 ケープ植民地の政治家セシル・ローズは、1890年、イギリス政府の保証のもとに私財を投じて当時マショナランドと呼ばれた現ザンビアと現ジンバブエ共和国の範囲にあたる地域を占領し、自分の名にちなんで「ローデシア」と命名した。セシル・ローズは、近東地域の研究家といわれ、考古学者を名乗っていたジェームズ・セオドア・ベント (James Theodore Bent) にグレート・ジンバブエの調査を行わせた。ベントは、グレートエンクロージャーの大円錘塔がフェニキアの貨幣に刻まれた「神殿」に似ていることなどから、鳥の石柱やこのような「神殿」を築いたのはアラビア文化を担う人々であって、グレート・ジンバブエは、アラビアにもたらされた黄金の鉱山のひとつに違いないと主張した。そして現在Q方式と呼ばれる丁寧に築かれた石積みは、西アジア人によるものだと主張した。 ベントの仕事を引き継いだのは当時のローデシア在住のジャーナリスト、リチャード=ホール (Richard Nicklin Hall) であった。彼は、西アジア由来の遺物を探すために、グレートエンクロージャーなどの遺物包含層を徹底的に掘り返し、この乱掘によって遺跡を大規模に破壊した。そして古代西アジア人による繁栄とイスラム教徒のアラブ・スワヒリ人による再興、そしてアフリカ人による退廃期という三段階の歴史的変遷が遺跡の調査で分かったと多数の著作で論じた。しかし彼は、グレート・ジンバブエがアフリカ人によるものであることを示す土器などをはじめとする生活用具には目もくれずに土砂と一緒に捨てたことまで著書に記述したので、その調査のずさんさに密かに疑問をいだく考古学者もいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グレート・ジンバブエ遺跡」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Great Zimbabwe 」があります。 スポンサード リンク
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