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グース・ゴスリン(Leon Allen "Goose" Goslin, 1900年10月16日 - 1971年5月15日)は、1920 - 1930年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。主なポジションは左翼手。ニュージャージー州セイラム生まれ。右投げ左打ち。"Goose"(ガチョウ)は、彼が煩いほど外交的だったことからついたあだ名である。 == 経歴 == 1921年、サウスアトランティックリーグのコロンビア球団からワシントン・セネタースに入団。強肩と勝負強い打撃で2年目から外野のレギュラーとなる。入団4年目の1924年に、打率.344、打点129で打点王のタイトルを獲得。セネタースをリーグ制覇に導く。同年のニューヨーク・ジャイアンツとのワールドシリーズでは3本塁打、7打点を挙げてシリーズ制覇にも貢献した。 1925年にはリーグ最多の20本の三塁打を含めシーズン200安打を達成、セネタースはリーグを二連覇する。ゴスリンは1924年から1928年までの5年間、打率で.333以上、100打点以上の成績5年連続で挙げた。また1928年には打率.379で首位打者にも輝いた。 1930年のシーズン中に、ヘイニー・マナシュらとの2対1のトレードでセントルイス・ブラウンズに移籍。ブラウンズに3年間在籍した後1933年に再びセネタースに復帰すると、その年セネタースは3度目のリーグ制覇を遂げた。翌1934年にはデトロイト・タイガースに移籍、チャーリー・ゲーリンジャーやハンク・グリーンバーグらと共にタイガースの"Gメン"の一員としてチームを牽引し、1934年、1935年と2度のワールドシリーズ出場を果たした。特に1935年のワールドシリーズでは、3勝3敗で迎えた第7戦にサヨナラヒットを放ち、タイガースを初の世界一に導く活躍をした。 1936年には打点125、122得点、24本塁打の活躍をし、オールスターゲームにも出場したが、1937年末にタイガースが放出。翌1938年に三たびセネタースに復帰して38試合に出場するも同年引退した。実働18年で、100打点以上を挙げたシーズンが12度あるほか、打率3割以上は11度、100得点以上が7度に及ぶ。またゴスリンは、ヤンキー・スタジアムで通算32本の本塁打を放っており、これは、ビジター選手がヤンキー・スタジアムで放った本塁打の最多記録である。 1968年にベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入りを果たす。1971年にニュージャージー州ブリッジトンで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グース・ゴスリン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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