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ケイ士廉[けい しれん]
邢 士廉(けい しれん)は中華民国、満州国の軍人。北京政府、奉天派の軍人で、後に満州国に属した。字は隅三。 == 事跡 ==
=== 奉天派での台頭 === 初めは、奉天省立第一初級中学で学び、優れた学業成績を残した。1908年(光緒34年)に軍人の道に転じ、官費で日本へ軍事留学した。日本では、東京振武学校でまず学習した後、陸軍士官学校第8期騎兵科で学んだ(同期は楊宇霆、臧式毅)。1913年(民国2年)に帰国した。 1916年(民国5年)、奉天督軍署参謀長となっていた楊宇霆の推薦により、邢士廉は黒竜江軍官養成所教練官に就任した。以後、張作霖率いる奉天派の軍人として順調に昇進した。邢は楊宇霆の派閥に属し、奉天派の軍事改革にも貢献している。1924年(民国13年)、東三省陸軍第24旅旅長に就任して、第1師師長李景林に属する。邢は、その所属部隊で最も優秀な武官との声望を得た。同年9月の第2次奉直戦争でも、邢は軍功をあげている。 奉天派勝利後の1925年(民国14年)1月、邢士廉は江蘇督軍となった楊宇霆に随従して南下し、上海に駐屯した。邢は淞滬戒厳司令として同地を統治し、特に中国共産党員や労働組合等を厳しく取り締まった。同年9月、奉軍第20師師長に昇進している。しかし、この時の取締りが上海市民の奉天派に対する不満をかきたててしまう。さらに、その混乱に付け入る形で直隷派の孫伝芳の反撃を招き、奉天派は敗北して南方地盤を喪失してしまった。これにより、同年11月、楊と邢は瀋陽に引き返した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケイ士廉」の詳細全文を読む
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