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ケッセルスドルフの戦い : ウィキペディア日本語版 | ケッセルスドルフの戦い[けっせるすどるふのたたかい]
ケッセルスドルフの戦い(独:Schlacht bei Kesselsdorf)は、1745年12月15日〔15日とする文献が多いが、『世界の戦史』では14日とする。なお英語版は14日、独語版は15日とする。今独語版に従う。〕に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)軍とザクセン軍の連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。 == 背景 ==
1745年冬、ザクセンはオーストリアと結んでプロイセンへの攻撃を計画し、オーストリア軍の応援を得てフリードリヒ・アウグスト・フォン・ルトフスキーの軍勢をプロイセンへ入れようとしていた。ところが11月末にヘンネルスドルフの戦いでラウジッツの友軍が撃破されたとの知らせが入り、プロイセンを攻撃するどころではなくなった。アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世率いるプロイセン軍はマクデブルクから南下を開始、慌てて後退する連合軍の後衛を駆逐しながら前進してライプツィヒを占領した。 西進してくるフリードリヒ大王の軍と連絡をつけるためにエルベ川渡河点を押さえる必要があり、息子のディートリヒにライプツィヒを任せるとデッサウ侯はいったん東北に向かってトルガウを占領した。しかしトルガウはプロイセン軍の目標であるザクセンの首都ドレスデンから離れすぎていて、より近い渡河点を得るためエルベ川沿いに南進し次にはマイセンの占領が求められた。12月12日夜、デッサウ侯は守備隊を追い散らしてマイセンを占領した。 大王がデッサウ侯に即時のドレスデン進撃と決戦を求めていたのに対して、老侯は補給を安泰にして慎重に進軍することを好んだ。しかしラウジッツからベーメンに退いたカール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲンのオーストリア軍がエルベ左岸を下ってドレスデンへ向かいつつあり、カール軍がドレスデンで合流する前にルトフスキー軍を撃破する必要があった。大王から度重なる催促を受けたデッサウ侯はドレスデン目指して雪中を行進し、その途上でドレスデンへの道をふさぐ連合軍を発見した。
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