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ケネソー山の戦い : ウィキペディア日本語版
ケネソー山の戦い[けねそーさんのたたかい]

ケネソー山の戦い(ケネソーさんのたたかい、)は、南北戦争アトランタ方面作戦中の1864年6月27日ジョージア州コブ郡で行われた戦闘である。北軍ウィリアム・シャーマン少将が、南軍ジョセフ・ジョンストン将軍の指揮するテネシー軍に対して、最も苛烈な正面攻撃を掛けさせ、痛い敗北に終わった。
1864年にシャーマンがアトランタ市に対して行った方面作戦は、当初からジョンストン軍の側面に回り込む操作が続いており、その操作の度に南軍の強力に防御された陣地から撤退を強いることとなったが、両軍とも大きな被害を出すことは無かった。そのような操作で2か月が過ぎ、70マイル (110 km) を移動して来た後、シャーマン軍の行く手はジョージア州マリエッタ市に近いケネソー山という強力な防御物で塞がれ、これまでの戦術とは異なる大規模な正面攻撃を行うという戦術を選んだ。ケネソー山の北端に対してジェイムズ・マクファーソン少将のテネシー軍が陽動行動を行い、一方、ジョン・A・ローガン少将の軍団がその南西隅にあるピジョンヒルを攻撃した。これと同時にジョージ・ヘンリー・トーマス少将のカンバーランド軍が南軍前線の中央にあるチーザムヒルに対して強力な攻撃を掛けた。この2つの攻撃とも多くの損失を出して撃退されたが、ジョン・マカリスター・スコフィールド少将のオハイオ軍が陽動行動を行って南軍の左翼を脅かすという戦略に成功した。南軍はケネソー山を捨てて、さらにアトランタ市に一歩近づく撤退を行い、しかもジョンストンはテネシー軍の指揮を外された。
== 背景 ==
1864年3月、北軍ユリシーズ・グラントが中将に昇進し、北軍の総司令官に指名された。南軍に対して多方面から同時に攻勢を掛ける戦略を考案し、内陸の戦線で南軍の各軍が相互に補強し合うことが無くなるのを期待していた。その攻勢の中でも重要なものは、ジョージ・ミード少将のポトマック軍にグラント自身も同行し、ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に直接攻撃を掛けながら、アメリカ連合国の首都リッチモンドに迫って行くものだった。またそれと同じ重要度があったのが、ウィリアム・シャーマン少将のミシシッピ方面軍がテネシー州チャタヌーガからアトランタに進む作戦だった。ミシシッピ方面軍は以前にグラントが指揮していたものをシャーマンに引き継がせていた〔Eicher, p. 661; McPherson, p. 722.〕。
グラントもシャーマンも当初は南軍の主要な軍隊と交戦してそれを破壊するという目標を持っており、敵の重要な都市を占領することは二次的なものであり、支援的な役割と考えていた。これはエイブラハム・リンカーン大統領がこの戦争を通じて強調して来た戦略であったが、グラントがその戦略に積極的に協調した最初の将軍になった。しかし、その方面作戦が進行するに連れて、リッチモンド市やアトランタ市の政治的重要性が戦略の大きな部分を占めはじめた。1864年までにアトランタが重要な標的になっていた。この人口2万人の都市は4つの重要な鉄道が交差するところに造られており、鉄道は南軍に物資を供給する手段であり、またその沿線には武器の製造工場もあった。アトランタは「南部の入口都市」というニックネームがあり、それを占領することはディープサウス全体を事実上、手に入れる道を開くことを意味していた。グラントがシャーマンに与えた命令は「ジョンストンの軍隊に対して行動し、それを破壊し、できるだけ敵国の内部に入り込み、その戦争遂行のための資源に対してできる限りの損傷を与えること」とされていた〔Bailey, pp. 20–21; Eicher, pp. 696–97.〕。
シャーマン軍の戦力は約10万名であり、3つの軍があった。テネシー軍(当初はグラントが指揮し、後の1862年から1863年はシャーマンが指揮した)はジェイムズ・マクファーソン少将が指揮した。カンバーランド軍はジョージ・ヘンリー・トーマス少将が指揮していた。比較的小さなオハイオ軍は第23軍団のみで構成され、ジョン・マカリスター・スコフィールド少将が指揮した。南軍はテネシー軍であり、不人気だったブラクストン・ブラッグ将軍が1863年11月の第三次チャタヌーガの戦いで敗北を喫した後で、ジョセフ・ジョンストン将軍の指揮に代わっていた。総勢5万名の軍は、ウィリアム・J・ハーディ中将、ジョン・ベル・フッド中将、レオニダス・ポーク中将の指揮する歩兵軍団とジョセフ・ウィーラー少将の指揮する騎兵軍団で構成されていた〔Eicher, pp. 696–97.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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