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ケビン・ダーネル・ミッチェル(Kevin Darnell Mitchell , 1962年1月13日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手(外野手)。トレードマークは金歯。 2001年に同じく福岡ダイエーホークスでプレーしたトニー・ミッチェルは従兄弟にあたる。 == 経歴 == === 米国時代 === にニューヨーク・メッツと契約。 にメジャー初昇格。はメジャーでの出場は無かったが、に再昇格すると、持ち前の打力と複数のポジションを守れる器用さがプラトーン・システムを好む監督デーブ・ジョンソンに好まれ、投手・捕手・中堅手以外の6つのポジションで先発出場を果たした〔シーズン前半は三塁手・遊撃手としての起用が中心であったが、シーズン後半にジョージ・フォスターが解雇されてからは主に左翼手で起用された。〕。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズ第6戦では、1点のリードを許した2アウト一塁の場面で打席に入り、2ストライクと追い込まれながらもヒットを打ち、逆転サヨナラ勝ちへとつなげ、同年の「ミラクル・メッツ」と呼ばれたワールドシリーズ制覇に貢献。 同年オフに、ケビン・マクレイノルズら2選手との交換で、ショーン・エイブナーら4選手と共にサンディエゴ・パドレスに移籍し、さらにシーズン中にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍〔この時の交換要員の一人に、その前年まで読売ジャイアンツでプレーしていたキース・カムストックが居た。〕。1987年は主に三塁手で起用されたが、にはほぼ外野手に定着して強打を発揮する。ベストシーズンは。同年は47本塁打、125打点をマークし、ナショナル・リーグMVP及び打点王、本塁打王の二冠に輝き、チームのワールドシリーズ進出に貢献した。 その後は故障もあって不本意な成績が続いていたが、レッズ時代のにMLB史上最長のストライキによるシーズン途中での中断ながら打率.326・30本塁打・OPS1.110(ナショナルリーグ2位)をマークして復活。同年オフにフリーエージェントとなり移籍先を探し、は推定年俸4億円以上を提示した福岡ダイエーホークスでプレーすることになり、来日した。この年にはミッチェル以外にもシェーン・マック(巨人)、グレン・デービス(阪神)、フリオ・フランコ(ロッテ)、ピート・インカビリア(ロッテ)など多くの現役大リーガーが前述のストライキの影響もあって日本を訪れ、日本プロ野球でプレーしている。 ミッチェルは米国時代から問題行動が多いことで知られ、球団首脳にしてみれば、野球以外の面でもマスコミに注目(批判)されるという「リスク」を承知で獲得しなければならない選手と言えたが、王貞治をはじめとする現場の人間の多くはボブ・ホーナーをも上回る直前成績を残していたバリバリ大物のミッチェルの獲得を強く望んでいた。1985年、当時巨人の監督であった王がメジャーリーグを代表する投手デーブ・スチュワートを「トラブルメーカー」との評判から獲得を逸し、このことが王にミッチェル獲得に熱意を持たせる要因となった。ミッチェル獲得に伴い、外国人枠の関係からブライアン・トラックスラー、ケビン・ライマーのどちらかを解雇することとなった。当時のチーム事情からトラックスラー解雇が決定的だったが、トラックスラーはダイエー本社海外部のお墨付きでダイエー球団に入団した経緯を持っており、親会社との関係から簡単に解雇に踏み切れなかった。結局、1995年の高知キャンプでトラックスラーは解雇となったが、その結果、ミッチェルと球団との関係にヒビが入ることになり、その後の処遇に悪影響をもたらした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケビン・ミッチェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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