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ケーシー高峰 : ウィキペディア日本語版
ケーシー高峰[けーしー たかみね]

ケーシー 高峰(ケーシー たかみね、1934年2月25日 - )は、日本タレント。本名、門脇 貞男(かどわき さだお)。
白衣姿で黒板ホワイトボードを用いる医事漫談の創始者にして、第一人者。愛称は「ドクター」。
== 来歴・芸風 ==
山形県最上郡最上町出身。母方は先祖代々医師の家系であり、母・シヅエは生涯現役で診察を務めた産婦人科医であった。また、父は海外出張の多い商社マンで、レコードの収集家だった〔ケーシー高峰さんが語る(3) 医事漫談の原点は母にあり 読売新聞「ヨミドクター」〕。兄弟をはじめ、一族の多くが医師・歯科医師であるという〔 ケーシー高峰さんが語る(1) 長患いの腰痛、手術に踏み切る 読売新聞「ヨミドクター」〕。
山形県立新庄北高等学校卒業〔ケーシー高峰 小島プランニングオフィス〕後、家業を継ぐべく日本大学医学部に進学させられたが、教授と相容れなかった(本人曰く、風貌を理由にいじめを受けた)ことと、モダン・ジャズに耽溺して学業がおろそかになったことから、日本大学芸術学部に転部〔ケーシー高峰 一代限りの“お色気漫談”を見よ スポーツニッポン「スポニチ演芸館」、2008年2月15日〕。同級生には宍戸錠らがいる。
在学中から「坊られい」と名乗り、クラブのMCとして業界では知られた存在となった。「坊られい」という芸名は、ドメニコ・モドゥーニョのヒット曲『''Nel blu, dipinto di blu''』のサビの歌詞で英題でもある「Volare(ヴォラーレ)〔のちにジプシー・キングスが同題でカバーし再ヒットした。〕」と、「ぼられた」に由来する。
1957年の日大卒業後、本格的に芸人を志し、漫才師大空ヒットに弟子入り〔『週刊アサヒ芸能』 2015年7月2日号「戦後70年特別ワイド オール直撃! 日本を大爆笑させた『昭和喜劇王』列伝」〕(一部資料では、リーガル天才に師事したとしている〔〔〔ケーシー高峰 コトバンク〕)。コロムビア・トップ門下の大空はるか(後の青空はるお)と下ネタ専門の漫才コンビ「大空はるか・かなた」を組み、自らは「かなた」を名乗った。コンビは南千住の「栗友亭」を拠点に〔そこそこ売れたものの、東京漫才界の対立騒動に巻き込まれて解散。
1968年、「ケーシー高峰」に改名し、漫才時代同様のエロネタをかける漫談家に転身した。名は自身が医師志望であった過去を活かし、医師が主人公のテレビドラマ『ベン・ケーシー』からとり、屋号の「高峰」は、ケーシーの少年時代、地元の最上町に映画『』の長期ロケでやって来て、一目惚れした女優の高峰秀子画家・安野光雅氏「女優・高峰秀子の大ファンだったから……」 週刊朝日 2012年6月22日号〕からとった。ケーシーは「セニョリータ」「グラッチェ」など怪しげなラテン系単語と、軽妙洒脱な下ネタを駆使し、『大正テレビ寄席』のセミレギュラー出演などを通じて、お茶の間の爆発的人気を博した。1969年には演芸番組『おいろけ寄席』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))の司会に起用された〔。
このかたわら、1970年代末以降、ピンク映画でヤブ医者役(必ず性病科産婦人科)を演じるなど、コミックリリーフ担当の俳優として多くの作品に出演する。渋い脇役のこなせる性格俳優としても開眼し、『夢千代日記』(1981年NHK)でのシリアスな演技が高く評価されたほか、『木更津キャッツアイ』(2002年TBS)ではオカマヤクザという極めて難しい役柄を演じてみせた。
俳優業でノーマルな役柄を演じることが増えるにつれ、その鬱憤を晴らすがごとく高座には更に磨きがかかり、従来の都会的(バタ臭くカッコ付ける)なスタンダップ・コメディ路線から、丸出しの山形弁で恫喝まがいの客いじりをする〔常連客がケーシーの特徴的な風貌をいじり、「夏みかん!」「ゆず!」などの掛け声で応酬するのが常。〕泥臭い芸風に進化して、爆笑王の地位を不動のものとする。立川談志は「ドクターは凄(すげ)ぇ。ドクターに勝てるスタンダップ・コメディアンは、俺かビートたけしくらいだ」と、その芸のセンスを評価した〔立川談志 『談志百選』 講談社、2000年〕。1990年頃、落語芸術協会に入会(のち脱退)。
2005年白板症舌癌)に罹患したが、完治させて復帰する。療養中にもかかわらず予定されていた独演会を敢行した際は、黒板を前に一言も喋らず舞台を務め上げ、身振り手振りと筆談だけで観客を魅了。「私のがんは……子宮がんです」「病床でも、いつ女を抱けるかなと考えていた」「顔は悪性です」 などとギャグを飛ばし、ゲストのおぼん・こぼんから「師匠は、喋らなくても笑いが取れる」と感服された〔2005年 サンケイスポーツ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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