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ケーニヒスベルクの戦い( )とは1945年4月6日から4月9日にかけて、東プロイセンのケーニヒスベルク(カリーニングラード)で行われたドイツ国防軍、武装親衛隊とソ連軍との間の戦闘である。 なお、本項ではドイツ語の地名を使用し、初出の場合のみ()の中に現在の地名を併記する。 == 背景 == 1945年1月13日に開始されたソ連軍の東プロイセン攻勢により、ドイツ軍の中央軍集団は戦線を支えきれず、東プロイセン防衛にあたっていたドイツの3個軍(第2軍、第3装甲軍、第4軍)のうち第4軍と第3装甲軍の残存部隊はケーニヒスベルクに撤退した。 1月20日頃には、コンスタンチン・ロコソフスキー上級大将麾下のがケーニヒスベルク西方のフリッシェス・ハフ()南岸に進出した。これに対して第2軍は1月26日に西方に向けて反撃を開始し、一時は包囲外のドイツ軍がいるエルビング(エルブロンク)に迫るも、ソ連第48軍の反撃によって撃退され、第2軍はハイリゲンバイル(マモノヴォ)で60万の民間人とともに包囲された。() この攻撃ののち、ケーニヒスベルクからの脱出路はフリッシェ・ネーリング()を目指して凍結したフリッシェス・ハフを歩くか、ザームラント半島()西部の港町ピラウ(バルチースク)からの海路のみとなった。 この攻勢の最中、大管区指導者エーリヒ・コッホは一般住民を陣地構築作業に動員〔陣地構築作業といっても、事前にドイツ軍の指揮官に通告せず、適当な場所で穴掘りをさせたものであった。『ベルリン陥落1945』p71〕したり、国民突撃隊に老人から子供まで徴兵した。さらにコッホは一般住民の避難を「敗北主義的行為」として禁止したため、多くの住民がケーニヒスベルクに取り残された。 しかし、東プロイセン各地からやって来る難民には対処しきれず、1月27日には最初の引揚船がピラウに入港し、民間人1800人、傷病兵1200人が脱出に成功した。コッホもこの船に乗ってケーニヒスベルクを脱出し、ベルリンに行った後、安全な後方地域で部下を指揮した。ピラウは、ケーニヒスベルクの守備隊と民間人にとって生命線であったが、2月はじめにソ連軍がケーニヒスベルク近郊に進出し、ケーニヒスベルクはザームラント半島から切り離された。これに対して第3装甲軍はピラウのドイツ軍と同時にソ連軍を挟撃し、2月19日にソ連軍の包囲を解くことに成功した。 この間、ケーニヒスベルク市街には20万の民間人が取り残され、守備隊の士気は著しく低下していた。住居も食糧もほとんどなく、西方への避難を諦めてソ連軍占領地域に逃れる民間人も出てきた。兵士の中には民間人の服に着替えて逃亡を試みる者もいたが、見つかった場合は容赦なく射殺された。なお、ソ連軍上層部はケーニヒスベルク市内のこの状況を投降した民間人や情報機関スメルシを通じて知っていた〔『ベルリン陥落1945』p167〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケーニヒスベルクの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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