|
アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク ()は、東プロイセンのケーニヒスベルクにあった大学。プロイセン公アルブレヒトによって1544年に第2校目のプロテスタントアカデミー(マールブルク大学のあと)として創立された。通称、ケーニヒスベルク大学。 第二次世界大戦後、ケーニヒスベルク市は1945年ポツダム協定によってソビエト連邦に編入され、カリーニングラードと改名した。 アルベルトゥスは閉校し、残っていたドイツ人は追放された。現在、カリーニングラードにあるは、アルベルトゥスの伝統を受け継ぐとされる。 == 学史 == 元ドイツ騎士団総長で、1525年以降、初代プロイセン公のアルブレヒトは、ザームラント司教区参事会よりプレーゲル川のクナイプホーフ島にあるケーニヒスベルク大聖堂の後ろの土地を購入し、そこで1542年にギムナジウムを建設した。1544年7月20日、''コレギウム・アルベルティーヌム''の設立権利証書を発行し、大学は8月17日に開校式を行った。 新しく建国されたプロテスタントの公国はポーランド王国王冠領の領地であり、大学はカトリック系クラクフアカデミーに対する形でルター派が運営した。最初の学長はフィリップ・メランヒトンの義理息子の詩人ゲオルク・サビヌスである。リトアニアの学者スタニスワフ・ラパリオニスやアブラオマス・クルヴィエティスは初期の大学教授陣の中にいた。〔The peoples of the Grand Duchy of Lithuania, 2002, p.17〕すべての教授達はアウクスブルク信仰告白に宣誓をしなければならなかった。プロイセンの領域は神聖ローマ帝国の国境をまたがっていた、皇帝カール5世とパウルス3世の2人は承認を保留したけれども、ケーニヒスベルクアカデミーは1560年3月28日にポーランド国王ジグムント2世から国王特権を受け取った。 1618年からプロイセン公国はブランデンブルク辺境伯による同君連合に統治され、そしてまた1657年に「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムは、最終的にヴェーラウ条約によってポーランドからプロイセンの主権を完全に獲得した。アルベルトゥスは、ブランデンブルク=プロイセン、プロテスタントの知的中心地であった。当初は神学、医学、哲学、法学の4つのコレージュで構成され、のちに、自然科学系も創設した。それ以後の学長には、数多くのホーエンツォレルン家のプロイセン王族が務めていたが(最後は皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセン、1908–1918)、しかし大学に出向くことはなく、通常は学術団体事務担当の副学長が代表した。 プロイセン領域は悲惨な三十年戦争においてほぼ無傷で残ったため学生の間でケーニヒスベルク大学は人気を博した。17世紀、1656年/57年に学長を務めた、詩人ジーモン・ダッハの拠点としても知られている。ロシア皇帝ピョートル1世は1697年にアルベルトゥスを訪問したため、プロイセンとロシア帝国間の接触を増やすことにつながった。ケーニヒスベルクで注目すべきロシアの学生には、のちにロシア科学アカデミーの総裁になったキリル・ラズモフスキー、そして将軍ミハイル・アンドレーエヴィチ・ミロラドヴィチである。大学と市はリトアニアの文化発展に多大な影響を与えた。リトアニア語の最初の図書は1547年にここで印刷され、複数の重要なリトアニアの作家がアルベルトゥスに通った。また、大学はバルト・ドイツ貴族のお気に入りの教育機関でもあった。 18世紀は啓蒙思想における「ケーニヒスベルクの世紀」として文化史に名をとどめている、アルベルトゥスの学生ヨハン・クリストフ・ゴットシェートのころに全盛期が始まり、哲学者ヨハン・ゲオルク・ハーマンや作家テオドール・ゴットリーブ・フォン・ヒッペル・エルダーらがそれに続いた。著名な卒業生にはヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、ツァハリアス・ヴェルナー、ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト、E.T.A.ホフマン、そして何よりも哲学者イマヌエル・カントは1786年と1788年に総長も務めた。これら学者らが、のちのヴァイマル古典主義やドイツのロマン主義運動の基礎を築いた。 アルベルトゥスの壮大な植物園はナポレオン戦争中の1811年に開園した。2年後、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは園の隣に優れた天文台を設置した。大学教授陣には哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1806–07)、生物学者カール・エルンスト・フォン・ベーア(1817–34)、数学者カール・グスタフ・ヤコビ(1829–42)、鉱物学者フランツ・エルンスト・ノイマン(1828–76)、物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1849–55)などのような科学世界の巨人達が含まれている。 19世紀および20世紀、大学は数学の学び舎として最も有名であり、カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビを創始として、彼の教え子ルートヴィヒ・オットー・ヘッセ、フリードリヒ・リシェロー、ヨハン・ゲオルク・ローゼンハイン、ルートヴィヒ・ザイデルらによってそれは受け継がれていった。これはのちにヘルマン・ミンコフスキー(アルベルト・アインシュタインの先生)、アドルフ・フルヴィッツ、フェルディナント・フォン・リンデマン、そして近代随一の数学者の1人ダフィット・ヒルベルトらの名が加わった。数学者アルフレッド・クレープシュおよびカール・ゴットフリート・ノイマン(ともにケーニヒスベルク生まれにして、ルートヴィヒ・オットー・ヘッセの下で教育を受けた)は、1868年に『Mathematische Annalen』を創刊、これはやがて当時で最も影響力をもった数学学術雑誌になっていった。 1844年8月31日に大学開校300年記念祭を祝う、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はアルベルトゥスの新本館の土台を築きあげ、それは皇太子フリードリヒ3世や副学長ヨハン・カール・ローゼンクランツによって1862年に開館式が執り行われ使用開始した。閲兵広場中央の建物はフリードリヒ・アウグスト・シュテューラーの設計、計画によってネオルネッサンス建築様式に建てられた。建物正面にはプロイセン公アルブレヒトの浮き彫り細工の騎馬図が飾られている。その下の方にプロテスタントの改革者マルティン・ルターやフィリップ・メランヒトンの彫像が壁龕にある。内部には大理石の円柱を支えている堂々たる階段がある。評議員会講堂にはリヒャルト・ラウヘルトによって描かれた皇帝フリードリヒ3世の肖像画や彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウの教え子フリードリヒ・ハーゲマンによって制作されたイマヌエル・カントの胸像が飾られている。隣接している講堂("Aula") には1870年に描かれたフレスコ画が飾られていた。 大学図書館は、1901年にミッテルベルカイムに所在し、約23万冊以上が所蔵されていた。ドリット・フリース・シュトラーセの近くに多機能施設パレストラ・アルベルトゥスが有り、市民や学生の間でスポーツ競技を高い形で奨励するため1898年に設立した。すぐ近くには官公庁があり、画家フーゴー・クノールや風景画家マックス・シュミットらによって描かれた壁画が飾られている。 大学末期間、ベルサイユ条約によって東プロイセン州の領域分離後、アルベルトゥスの教員やドイツ学生連合は知的生活をドイツナショナリズムの方向へと押しあげ、帝国との連携を強調した。 1944年7月10日、大学は帝国大臣ヴァルター・フンク参列下でその400周年を迎えた。数週間後、8月26日/27日および29日/30日の夜の間に、ケーニヒスベルクは、広範囲に英国空軍によって爆撃された。さらに1945年1月から4月にかけて市は赤軍の東プロイセン攻勢、そして最後にケーニヒスベルクの戦いによって荒廃した。大将は4月9日に降伏文書へ調印、歴史的中心街は攻撃によって破壊され、大学キャンパスの約80%は廃墟と化した。教授陣は避難し、その多くはゲッティンゲン大学に受け入れられた。 アルベルトゥス本館を含む残った学内施設は1948年からカリーニングラード国立教育学研究所によって利用され、1967年にカリーニングラード国立大学が使用資格を得た。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|