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ゲルニカ空爆 : ウィキペディア日本語版
ゲルニカ爆撃[げるにかばくげき]

ゲルニカ爆撃(ゲルニカばくげき、, , )またはゲルニカ空爆(ゲルニカくうばく)は、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍コンドル軍団がスペイン・ビスカヤ県ゲルニカに対して行った都市無差別爆撃である。
ゲルニカにはバスク地方の自治の象徴であるバスク議事堂とゲルニカの木があり、歴代のビスカヤ領主がオークの木の前でフエロ(地域特別法)の遵守を誓ったことから、ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だった〔大泉(2007)、p.33〕。フランスの思想家であるジャン=ジャック・ルソーは、「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった」と書いている〔川成洋『スペイン 未完の現代史』彩流社, 1990年, p.124〕。この爆撃は焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲であり〔狩野(2003)、p.71〕、「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」〔大泉(2007)、p.34〕〔渡部(2004)、p.135〕〔碇順治『現代スペインの歴史』彩流社、2005年、p.55〕とされることもある。この爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、戦略爆撃は第二次世界大戦で本格化した〔荒井(1991)、p.4〕。コンドル軍団はこの作戦をリューゲン作戦(Operation Rügen)という作戦名で呼んだ。
== 経過 ==

=== スペイン内戦の経過 ===


1931年にはアルフォンソ13世が退位して第二共和政が成立したが、改革の失敗から民衆の不満が噴出し、1933年の総選挙では右派の(CEDA)が躍進して左派勢力は敗北し〔狩野(2003)、p.21〕、1936年の総選挙では再び左派が勝利して人民戦線政府が成立するなど、左右両派の力は拮抗しており社会不安が高まっていた〔狩野(2003)、p.26〕。7月にはフランシスコ・フランコ、両将軍を首謀者とする軍事クーデターが発生し、スペイン内戦が始まった。伝統主義の気風が強いナバーラ県アラバ県は反乱軍の側に立ったが、バスク・ナショナリズムの影響力が強いビスカヤ県ギプスコア県はスペイン独立右翼連合への反感もあったため、共和国政府側に立って人民戦線とともに戦い、バスク地方はスペイン内戦によって分断された〔狩野(2003)、p.27〕。
フランコ軍による本格的な北方作戦の開始前にも、フランコ軍と手を組んだドイツ空軍による空襲は断続的に行われており〔狩野(2003)、p.58〕、彼らは空軍演習を主目的としていた〔〔渡部(1984)、p.105〕。コンドル軍団はフランコ個人にのみ責任を持ち、独立した指揮権下で北方作戦を遂行していた〔荒井(1991)、p.70〕。それまでスペインの鉱山は主にイギリス資本が所有していたため、ドイツ軍にとってバスクを手に入れることはイギリスの軍事経済に打撃を与える効果も期待できた〔荒井(1991)、p.62〕。1937年1月4日にはハインケル戦闘機3機とユンカース Ju52爆撃機9機がビルバオを空襲した〔。反乱軍は重工業地帯を持つバスク地方に集中攻撃をかけることを決定し、陸軍と空軍の主力部隊、フーゴ・シュペルレを司令官とするドイツ空軍のコンドル軍団、イタリア空軍の旅団や師団をビトリア=ガステイス近辺に集結させた〔狩野(2003)、p.66〕。歴史家のによれば、反乱軍の一連の北方作戦は地上軍と空軍を緊密に連携させた史上初の作戦だった〔。
1937年3月31日のドゥランゴ爆撃を緒戦として、モラ将軍を司令官とする本格的な北方作戦が開始された〔狩野(2003)、p.67〕。ドゥランゴには戦闘機9機、爆撃機4機によって計4トンの爆弾が落とされ、バスク自治政府によれば即死者127人、病院での死亡者150人超、負傷者300人超を数えた〔狩野(2003)、p.68〕。ドゥランゴには防空体制や軍事施設などはなく〔ビーヴァー(2011)、p.234〕、歴史家のはドゥランゴを「容赦なく爆撃された最初の無防備都市」と表現した〔荒井(1991)、p.63〕。それまでの空軍は地上戦闘の補助的役割にとどまっていたが、ドゥランゴ爆撃以後は独自の戦力としてみなされ、第二次世界大戦では主体的役割を担った〔。ビスカヤ県全域が連日のように空襲を受け、地ならしを終わると地上軍による侵攻を受けた〔狩野(2003)、p.69〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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