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コンスタンス・オブ・カスティル : ウィキペディア日本語版
コンスタンス・オブ・カスティル

コンスタンス・オブ・カスティル(Constance of Castile, 1354年 - 1394年3月24日)は、イングランド王族ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの2番目の妃。カスティーリャペドロ1世マリア・デ・パディーリャの娘。スペイン語名はコンスタンサ・デ・カスティーリャ(Constanza de Castilla)。
1371年にアキテーヌでジョン・オブ・ゴーントと結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。
* キャサリン(1372/1373年 - 1418年)
* ジョン(1374年 - 1375年)
翌1372年に妹イザベラ(イサベル)が、夫の弟エドマンド・オブ・ラングリーと結婚している。
コンスタンスの父ペドロ1世は庶兄エンリケ2世との戦い(第一次カスティーリャ継承戦争)の末、1369年に殺害されて王位を奪われた。ジョン・オブ・ゴーントは1386年から1389年にかけてカスティーリャへ遠征し、妻の権利として王位継承権を主張したが、目的は達せられなかった。1393年に娘キャサリンがエンリケ2世の孫エンリケ3世と結婚することで、両家は和解した。
コンスタンスは1394年にレスターで死去した。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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