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コンスタンチン・オリゴヴィチ : ウィキペディア日本語版
コンスタンチン・オリゴヴィチ
コンスタンチン・オリゴヴィチ(、? - 1215年もしくは1226年)は、チェルニゴフ・オレグ家(ru)出身の13世紀前半のルーシのクニャージ(公)である。『リューベチ・シノディク』にその名が記されており、それによれば、オレグ(ru)の子のうちの1人で、チェルニゴフ「大公」(ヴェリーキー・クニャージ)であったと記されている。推定される公位と在位期間はチェルニゴフ公:1206年 - 1207年、1210年 - 1215年。もしくは1223年 - 1226年。
==生涯==
V.タティシチェフ(ru)は、1210年 - 1215年と、フセヴォロド(ru)キエフ大公位にあった1206年 - 1207年の間に、チェルニゴフ公であったリューリクという人物は、スモレンスク・ロスチスラフ家出身のリューリク(ru)ではなく、本項のコンスタンチン(コンスタンチンは聖名であり、出生名はリューリク)であると論じている。R.ゾトフ〔О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время стр 57—63.〕、A.ピャトノフ〔Борьба за киевский стол в 1210-е. Спорные вопросы хронологии 〕もまたこの説を部分的に支持している。しかしこの説に従うならば、コンスタンチンはグレプムスチスラフの2人のおじの生存中にチェルニゴフ公位にあったことになり、当時の継承法(ru)に反することになる。
また、A.ゴルスキー(ru)の説によれば〔Горский А. А. Русские земли в XIII—XIV веках. 〕、コンスタンチンはカルカ河畔の戦いでおじのムスチスラフ(上記のムスチスラフ)が死亡した1223年から、1226年にかけてチェルニゴフ公位にあったとされる。さらに、ミハイルオレグ(両名ともに、この期間のチェルニゴフ公として挙げられる人物である。)がチェルニゴフ公国の支配権をかけて争ったのは、ムスチスラフの死の直後のことではなく、1226年のことであると論じている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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