翻訳と辞書
Words near each other
・ コンスタンチン・ヒールル
・ コンスタンチン・フェオクチストフ
・ コンスタンチン・フェーレンバッハ
・ コンスタンチン・フェーレンバハ
・ コンスタンチン・プリコフスキー
・ コンスタンチン・プリソフスキー
・ コンスタンチン・プレザン
・ コンスタンチン・ベズマテルニフ
・ コンスタンチン・ベンケンドルフ
・ コンスタンチン・ポベドノスツェフ
コンスタンチン・ミハイロヴィチ
・ コンスタンチン・メリニコフ
・ コンスタンチン・メンショフ
・ コンスタンチン・メーリニコフ
・ コンスタンチン・ユオン
・ コンスタンチン・ラヴロネンコ
・ コンスタンチン・リエーバ
・ コンスタンチン・リフシッツ
・ コンスタンチン・ルベンチェンコ
・ コンスタンチン・ロコソフスキー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

コンスタンチン・ミハイロヴィチ : ウィキペディア日本語版
コンスタンチン・ミハイロヴィチ

コンスタンチン・ミハイロヴィチ, 1306年頃 - 1346年頃)は、当初トヴェリ大公国内のドロゴブシ分領公、兄のアレクサンドルの死後、トヴェリ大公(在位:1328年 - 1337年1339年 - 1346年)、父はウラジーミル大公にしてトヴェリ大公のミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。息子にセミョンとエレメイ(両者はドロゴブシ分領公)がいる。'', 1306年頃 - 1346年頃)は、当初トヴェリ大公国内のドロゴブシ分領公、兄のアレクサンドルの死後、トヴェリ大公(在位:1328年 - 1337年1339年 - 1346年)、父はウラジーミル大公にしてトヴェリ大公のミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。息子にセミョンとエレメイ(両者はドロゴブシ分領公)がいる。
== 事跡 ==
初めて年代記に登場するのは1318年。父の人質としてハン国にいた。
* 1320年にモスクワのユーリー3世の娘ソフィアと結婚する。
* 1327年のトヴェリ蜂起に際し、ハンの懲罰を恐れ、トヴェリの諸公はノヴゴロドプスコフに逃亡する。コンスタンチンもラドガに逃亡するが、すぐにトヴェリに帰国。
* 1328年にハンから、トヴェリ大公位のヤルルィクを得る。
* 1337年に兄アレクサンドルにトヴェリ公位を一時渡す。
* 1346年頃、兄アレクサンドルの息子フセヴォロドと争い、両者ともに紛争解決のためにハン国に行く。その解決を見ぬ前にコンスタンチンはそこで死去した。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コンスタンチン・ミハイロヴィチ」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.