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コンスタンティノープルの陥落 : ウィキペディア日本語版 | コンスタンティノープルの陥落[こんすたんてぃのーぷるのかんらく]
コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブル)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡、古代からのローマ帝国は最終的に滅亡した〔一般的には「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ帝国滅亡とされるが、東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。詳細はローマ帝国#ローマ帝国の滅亡、出典は東ローマ帝国#参考文献を参照。〕。 == メフメト2世の野望 ==
この戦争の以前には、オスマン帝国と東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると「帝国」という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルと、ペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。ローマが東西に分裂して以来、コンスタンティノープルは幾度となく攻撃を受けてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回だけであった。10世紀のブルガリア帝国君主シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように、東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。
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