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コンスタンティノープル大宮殿(コンスタンティノープルだいきゅうでん、、)は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあった巨大宮殿複合体で、半島南西端のイスタンブル旧市街地にあたる場所にあった。聖なる宮殿(、)とも。330年から1081年まで東ローマ帝国歴代皇帝の居所とされ、800年以上に渡って帝国統治の中心地だった。ごく一部の遺構や基礎部分しか現存していない。 == 歴史 == 330年にコンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープルに首都を移転させたとき、彼は自身と後継者のための宮殿建設を計画した。宮殿は競馬場とアヤソフィアの間とされた。何度か拡張および修復されており、特にユスティニアヌス1世とテオフィロスの治世下で大規模な修復・拡張が行われた。 13世紀初頭まで大宮殿はコンスタンティノープルの統治と儀礼の中心だったが、コムネノス王朝初期から皇帝の居所としてはブラケルナエの宮殿の方が好まれた。第4回十字軍によるコンスタンティノープル略奪に際しては、モンフェラート侯ボニファチオの率いる兵らが大宮殿で略奪した。その後のラテン帝国でも大宮殿を使い続けたが、修復するための資金がなかった。ラテン帝国最後の皇帝ボードゥアン2世・ド・クルトネーは、宮殿の鉛板製の屋根を取り払って売るところまで追い込まれていた。 1261年、ミカエル8世パレオロゴスの軍がコンスタンティノープルを奪回したとき、大宮殿は無残な状態だった。パレオロゴス王朝の皇帝らは大宮殿をほぼ放置し、ブラケルナエの宮殿を主に使った。そのため1453年にメフメト2世がコンスタンティノープル入りしたとき、大宮殿は廃墟と化していた。その空虚なホールや別館を見て回りながら、メフメト2世はペルシアの詩人フェルドウスィーの次の詩をつぶやいたとされている。 「蜘蛛は帝王の宮殿に巣を張り、 大宮殿の大部分はオスマン帝国初期にコンスタンティノープル全体の再建の一環として撤去された。しかし20世紀初頭の火事で大宮殿の遺構の一部が顕わになった。その際に独房、多数の大きな部屋、墓と思われるものなどが見つかっている。大宮殿の発掘調査は現在もイスタンブルで行われている。これまで発掘調査が行われたのは大宮殿の敷地の4分の1未満である。大宮殿跡地にはスルタンアフメト・モスクとそれに付随する各種建物が建っており、大がかりな発掘は不可能である。これまでに出土したモザイク画の多くはモザイク博物館に展示されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンスタンティノープル大宮殿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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