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コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー(, Konstantin Eduardovich Tsiolkovskiy、1857年 9月17日 - 1935年9月19日)は、帝政ロシアおよびソビエト連邦の科学者、ロケット研究者、数学教師、著作家。 ロケット理論や、宇宙服や宇宙遊泳、人工衛星、多段式ロケット、軌道エレベータなどの考案で知られ、現代ロケット工学の基礎的理論を構築した。この業績から「宇宙旅行の父」「宇宙開発の父」「ロケット工学の父」などと呼ばれる。『月世界到着!』(1916年)をはじめとする先駆的かつ科学啓蒙的なSF小説を著したことにより、SF史にも名を残す。 ==来歴== 1857年9月17日、モスクワ南東のイジェーフスコエ(リャザン州スパッスク=リャザンスキーの北東)で生まれる。本来の姓はポーランド語でCiołkowski(ツィオウコフスキ)といい、父は革命運動に携わったためロシアに追放されたポーランドの愛国者、母はロシア人だった。 1865年、9歳で猩紅熱にかかり、聴力のほとんどを失う。補聴器すらない時代故に、喇叭に似た形の器具を用いて耳の助けとしており、映像記録にもそれがある。 13歳で独学をはじめ、16歳でモスクワに出て図書館の蔵書を濫読する。 1879年、22歳で教師の免許を取得し、ボロフスクの中学校で数学を教える。 1891年に流線型の金属飛行機を早くも論文で発案した。しかし、アカデミーの審査会は却下した。 教員としての勤務の傍ら、「月の上で」(1893年)、「地球と宇宙に関する幻想」(1895年)などのエッセイを著す。 1897年、ロケットエンジンの推進剤の噴射速度が大きいほど、また噴射される推進剤としてロケットから失われる質量と、残存部分の質量の比すなわち質量比が大きいほど、そのロケットシステムにより大きな増速度が得られるということを意味する「ツィオルコフスキーの式」を示した。「ロケットの理論」として完成したものの最初のものとされる。 1903年、「反作用利用装置による宇宙探検」を著し、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型のロケットの設計図を発表した。この中に登場する一節にして、章のタイトルでもある「今日の不可能は、明日可能になる(Impossible today becomes possible tomorrow〔Full text of "Study of outer space by reaction devices" 〕)」は、ツィオルコフスキーの先端技術に対する姿勢を表す言葉として、しばしば引用される。 1911年、知人に手紙を出し、その中に有名な一節「」(地球は英知の揺り籠だが、しかしその英知々が永遠に揺り籠に留まるべきではない。)が含まれていた。 帝政時代には不遇だったが、ロシア革命後に初めて評価され、1919年にソビエト連邦科学アカデミーの正会員に選ばれ、共産党政府の下でロケット研究に専念する。多段式ロケット(彼は「ロケット列車」と呼んでいた)の検討を進める。 1920年代には多段式ロケットとジェットエンジンの理論を完成させ、世界で初めて宇宙ステーションを考案した。 75歳の時に労働赤旗勲章を受章する。 1935年9月19日78歳で死去、国葬が行われる。死ぬ直前はブースターの可能性を論じていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンスタンチン・ツィオルコフスキー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Konstantin Tsiolkovsky 」があります。 スポンサード リンク
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