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コンスタンティン・ティフ : ウィキペディア日本語版
コンスタンティン・ティフ

コンスタンティン・ティフ(、? - 1277年)は、第二次ブルガリア帝国皇帝ツァール、在位1257年 - 1277年)。スコピエの貴族ティフの子として生まれ、セルビアステファン・ネマニャを母方の祖父に持つ。セルビア王ステファン・ウロシュ1世はコンスタンティン・ティフの伯父にあたる。
== 生涯 ==

=== 治世の前期 ===
1257年のブルガリア皇帝カリマン2世の死後にベオグラードの総督ロスチスラフ・ミハイロヴィチによって皇帝に推されたミツォ・アセンに対して、ブルガリアの貴族はコンスタンティン・ティフを皇帝に擁立した。
1261年にコンスタンティンの軍はミツォ・アセンから決定的な勝利を収め、敗れたミツォ・アセンはビザンツ(東ローマ)皇帝ミカエル8世の元に亡命した。コンスタンティンは帝位の正当性を強調するため、アセン家の血を引くニカイア皇帝テオドロス2世の娘イレネ (Irene Doukaina Laskarina)と結婚し〔イレネの母親は、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の王女エレナ(Elena Asenina of Bulgaria)であり、イレネはイヴァン・アセン2世の孫にあたる。〕、「アセン(Асен)」姓を名乗った。
1259年から1261年にかけて、コンスタンティンはミツォ・アセン以外にハンガリーとも戦わなければならなかった。1259年にハンガリー軍はブルガリアに侵入し、1260年にコンスタンティンは短い期間セヴェリンを支配した。しかし、1261年にハンガリーの王子イシュトヴァーンに率いられたハンガリー軍はセヴェリンを奪回し、ブルガリアの支配下にあったヴィディンロムを一時的に占領した。ブルガリア軍はヴィディンを統治するロシア出身の貴族ヤコブ・スヴェトスラフの指揮下で失地を奪回した。
1261年にニカイア皇帝ヨハネス4世ミカエル8世によって廃位された後、ヨハネス4世の義兄弟にあたるコンスタンティンはミカエル8世と敵対する〔尚樹『ビザンツ帝国史』、777頁〕。1264年にモンゴル国家のキプチャク・ハン国の軍隊が再興したビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土に侵入するとブルガリア軍も入寇に参加するが、ブルガリアの国威を向上させるほどの成果は挙げられなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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